マタイによる福音書の5章11~12節は、3節から始まった「〇〇の人は幸い」という表現を用いて語られる最後の教えです。 今、主イエスは目の前にいる弟子たちを見つめ「さぁ、報いが用意されているのだから喜びの声をあげなさい」と促すように「あなたがたは幸いである」と語っておられます。 英国の児童…
教会は11月27日の日曜日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい一年が始まりました。ゲーム好きの若者にとっては、スマートフォンで遊べるゲームアプリですが、西方教会(ローマカトリック教会やプロテスタントの福音主義教会)にとっては、イエス・キリストの降誕を待ち望む季節です。 クリスマスにみ…
「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る」 キリスト教信仰にとって心はその人そのものを表します。そして人には、善を愛し神を愛したいという思いと一緒に、悪を好み悪を為したいという思いもあるため、生まれながらに心の清い人はいません。 人間の現実を見据える聖書は、人間による最初の罪…
「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける」 ある学者が、「恵み」と比べると「憐れみ深い」の意味を良く理解できると言いました。「恵みは特に罪の中にいる人と関連があり、憐れみは特に悲惨の中にいる人と関連がある」からだそうです。私はこれを「恵みは罪全体を見るが、憐れみは罪の悲惨な…
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と言われている悲しみを文字どおりに取ると、喪に服している人々の悲しみだということです。 「死が戸を叩き不幸が家族を襲うとき、それとは全く違う神の支配による幸いが戸口に立っている。愛する者の死によって心を抑えつけられるような苦しみに遭い心に傷を…
パウロは手紙の中で、神の富の豊かさについて度々語ります。ローマの信徒への手紙の11章33節では「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか」と感激さえしています。だからこそパウロは、自分たちが神に近いと思い込むことで簡単に神の豊かな富を忘れてしまう我々信仰者を嘆くのです。そしてパウロは、私たちが他人を…
「イエスがメシアか?そうでないか?」と疑いまどう民衆に向かって主イエスは大声で言われます。「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしに…
ローマの信徒への手紙は紀元56~58年頃、コリントで書かれたと言われています。 地中海の沿岸にはパウロの伝道によって幾つもの異邦人教会が育っていました。けれど、異邦人世界への使徒としての自覚と誇りを持つパウロの胸には新たな夢が膨らみます。それはイスパニアへの伝道であり、その足掛かりとしてのロー…
2025-3-9