四谷新生教会 2021.2.28
マタイによる福音書12:22-32
「神の国を歩む人々」
教会の暦では、今月17日の「灰の水曜日」から今年の四旬節に入りました。四旬節は受難節やレントとも呼ばれております。四旬節は4月3日(土)迄ですが、日曜日を除くと40日間となります。「40」と言いますと、主イエスの荒野での40日間の誘惑や、イスラエルの民の荒野での40年間の旅を想い起こされます。そして、この「40」は苦難を象徴する数字でもあります。それゆえに四旬節は受難節とも言われ、主イエスの苦難と十字架を想い起こして過ごす期間なのです。また、レントとは元々「日が長くなる」という意味ですが、そこから「春」を指す言葉になりました。
いずれにしましても、古くからキリスト者は、四旬節(受難節・レント)の期間には、主イエスの受難と十字架の意味を深めて、自分に打ち勝って、神に従うという克己の生活を大切にして来ました。四旬節の初日は「灰の水曜日」ですが、なぜ「灰」なのかと言いますと、聖書では「灰」が深い悔い改めや悲しみを表わす象徴とされているからです。
それでは四谷新生教会の教会員の皆さんは、四旬節(受難節・レント)を過ごしている今、どのような信仰生活を送っておられるでしょうか。
皆さんの中には、「受難節でなくとも、いつもイエス様の受難を覚え、悔い改めの祈りをささげ、日々節制し、主に従うために必要のないものを思い切って捨てて、克己の生活に努めています。」と言われる方もおられるかもしれませんが、そうであればそれはすばらしいことです。ぜひ主イエスの栄光を現しつつ歩む信仰生活において、ますます主を証し続けていただきたいと願います。ちなみに、私は四旬節(受難節・レント)のこの期間(とき)、自宅から職場の幼稚園迄の徒歩40分程の時間に、「主イエスは私の身代わりとなって十字架で殺されたんだ」と心の中で言い、その後で主イエスを十字架につけてしまった原因である、隣人を自分のように愛したり、赦したりできなかった具体的なことを思い出すということを、何度か繰り返し行っております。思い出す度に、ため息が出て辛く悲しく、情けなくなりますが、「主よ、私をあわれんで下さい」と祈り求めております。
さて、実際に十字架への苦難の道を歩まれた主イエスの一つの出来事を今日の聖書から知りたいと思います。今日の場面は、ある安息日に、主イエスを何とかして捕らえ殺そうとしていた、ユダヤ教の指導者であり権力者であったファリサイ派の人々と、主イエスとの論争です。ことの発端は、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を、主イエスが癒すと、話せるようになり、目が見えるようになったことでした。そして、この主イエスの癒しの出来事を見ていた群衆が驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と口々に言い出したからです。「驚いて」と訳されている言葉ですが、とても大きな驚きを表わす言葉です。
どうしてこのような驚きをしたのかと言いますと、主イエスがダビデの子ではないか、と思ったからです。「ダビデの子」とは救い主、メシアを指す称号です。ファリサイ派の人々は、主イエスは救い主ではないか、という群衆の高まる声を聞いて、主イエスへの敵意をますます強くし、生かしておけなくなったのです。
そこで、ファリサイ派の人々が取った行動は、主イエスの癒しの業が「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と非難し、否定することでした。悪霊とは異教の神々、偶像を軽蔑した言い方であり、偶像にささげ物をする者は悪霊と交わる者だと言われていました。当時は病気や障がいなどが悪霊の仕業と考えられ、ユダヤ教においては罪人と見なされていました。
ファリサイ派の人々から「悪霊の頭ベルゼブル」と侮蔑された主イエスは、彼らの考えを見抜いて、「内輪で争えばどんな国も荒れ果ててしまうし、どんな町や家も成り立たない」と指摘しました。主イエスが敢えてファリサイ派の人々に反論したのは、単に相手の意見を言い負かそうとしたからではなく、「彼らの考えを見抜いて」いたからです。彼らの内に潜む「イエスを殺そうとする策略」を、主イエスはすばやく見抜く力を持ち、決してファリサイ派の人々から陥れられるような方ではなかったのです。
さらに主イエスは彼らに、「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなた達の仲間は何の力で追い出すのか」と指摘し、問いました。
実は当時、ソロモン王が神からの教えに基づき考案した悪魔退治の呪文を唱えて悪魔に取りつかれた人を治したり、ユダヤ教の教師であるラビが、本業ではないけれども悪霊を払う方法を伝えたり、行っていたのです。主イエスはそのことを引き合いに出して、あなた達ファリサイ派の人々も、私と同じことをしているけれどもそれはどうなのか、と指摘したのです。その指摘にファリサイの人々は一言も声がでませんでした。
そこで主イエスは、自分が悪霊を追い出したことについて触れて、「私が神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた達のところに来ているのだ。」と話しました。主イエスはマタイによる福音書の4章17節で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言をしていますが、今日の個所では「近づいた」ではなく「来ているのだ」と語っていて、神の国が到来していることを強調し、神の支配の現在性を明らかにされています。そして注目したいのは、「 神の国はあなた達のところに来ているのだ」と語っていることです。あなた達とは、まさに今、主イエスを殺そうと躍起になっているファリサイ派の人々のことです。
主イエスを非難し、否定し、拒否する人々の上にも、神の国は確かに来ているのだと教えているのです。神の国とは主イエスと共にあり続ける世界のことです。神の前に正しく生き切ることのできない罪なる私達人間のために、主イエスはその罪を贖って下さり、私達人間が神の前に罪が赦された者として、永遠に生き続けさせてもらえるところが神の国なのです。
ここで主イエスは、神の霊で悪霊を追い出すということについて、「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。」とファリサイ派の人々に問います。「強い人」とはサタンのことであり、サタンには敵という意味があります。主イエスが神の霊で悪霊を追い出すということは、神の敵であるサタンが追い出されることなのです。そして、主イエスは自分に味方しない者は敵であり、自分と一緒に宣教しない者は神に従わない者だとはっきり語ります。主イエスに対しての中立の立場はないということです。とても厳しい言葉であり、私達一人ひとりに決意、決断を迫る言葉と言えます。
最後に、主イエスは明らかに自分の敵、すなわち神に従っていないファリサイ派の人々に対して、「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」と教えました。この主イエスの言葉の根底には、神の前における人の罪は赦されているという喜ばしい宣言があります。主イエスは神の子、救い主でありながら、この世では罪人とされました。
また、主イエスは自分と同じように罪人とされたり、罪を犯した者と共に生きて、時に慰め、癒し、悔い改めさせ、神の前に回復させて下さいました。
このように主イエスは、主イエスによって、すべての人に神様の恵みと祝福が与えられることを示しながらも、「しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」と警告を与えられました。これはどういうことでしょうか。それは悪霊とは異教の神々のことでしたが、聖霊はイスラエルの神、主なる神のことです。主なる神は義の神でもあります。義なる神が人間の罪を放任されるならば、義の神は義の神ではなくなってしまいます。義なる神は罪に対して厳しい審判を下され、その結果、罪人は赦されず死ぬしかないのです。
このことは人間にとって深刻な事態です。この深刻な状態から人間を救う手立ては、主イエスの十字架の死、贖罪以外にはないのです。四旬節(受難節・レント)を過ごす私達キリスト者は、主イエスに赦され、救われていることを素直に喜び感謝すると同時に、本来は神から赦されず、救われない私達が、主イエスの十字架の死、贖罪、復活によって赦され、救われていることを肝に銘じておきたいものです。
(祈祷)
主なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。
あなたは私達がどこの場所で礼拝を守っていても共にいてくださいます。
心より感謝をいたします。
新型コロナウイルスの感染は少しずつ弱くなってきていますが、私達が油断をせず、引き続き予防や対策に努めていけますよう励まして下さい。
私達が主イエス・キリストによって救われている喜びを持ちつつも、救いは、主イエスの苦難と十字架の死がなければ与えられなかったことを、心に留めて日々の生活を送れますよう信仰を養って下さい。
このお祈りを主イエス・キリストのみ名によっておささげいたします。
アーメン。
2021
27Feb