2021 年 2 月 7 日四谷新生教会メッセージ「天の国のための『宦官』」
マタイによる福音書19章10~12節
弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるものではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。
はじめまして。北口沙弥香と申します。神奈川県藤沢市にある「日本キリスト教団藤沢ベテル伝道所」の担任教師をしています。教職は 3 人いるのに信徒はレギュラーメンバー2 人というたいへん小さな教会です。そんな教会でありますから私は教会から謝儀をいただいておりません。
2015 年に農村伝道神学校を卒業して今とは別の教会の副牧師をすることになったのですがそこも「月 1 万五千円」の約束でおいていただける約束でした。なので、町田市の「重度訪問介護」のヘルパーサービスを提供する会社に友達の紹介で就職し、牧師と介助ヘルパーの二足のわらじの日常を送っています。「重度訪問介護」とは耳慣れない制度でしょうけれど、主に重度の身体障害をお持ちの方の生活全般のお手伝いをする仕事です。「こんな夜更けにバナナかよ」という映画が数年前に公開されましたけれど、まさに私の賃金労働は「あの世界」です。あの映画でボランティアがしていたことが「制度化」されて、今の私の仕事になっているというわけです。病院の外で生きていきたいというひとりの重度身体障害者の願いが日本の福祉制度を変えることになったということです(むろん「こんな夜更けにバナナかよ」の鹿野靖明さんだけでなく、全国でたたかって生きた数多の方がおられたということです)。
このようなふうがわりな牧師がなぜ講壇のご奉仕をさせていただくことになったかといいますと・・・。私は普段 SNS のひとつである Twitter を「活動拠点」にしています。特に昨年 4 月の緊急事態宣言以降、音声動画メディア「ツイットキャスティングライブ」で「礼拝」や「雑談枠」を公開するようになりました。それらのつながりから「オフ会」を行うことにもなり、こちらの教会の呉越さんも参加してくださいました。コロナ禍の中、インターネットの世界を通して、教会の枠を超え「新たなつながり」が与えられたことを感謝しております。私は現在 36 歳で、教会には大学生になってからいくことになりましたが、洗礼を受けた札幌の教会には青年会がありませんでした。Twitter を通じて同世代から私よりももっと若い方と知り合うことができ「青年会活動」を体験させていただいております。
2020 年も終わりに近づく頃、呉越さんから連絡をいただきました。説教者が決まらない日があるので助けて欲しいという趣旨でした。「2 月 7 日なら行けるよ。役員会にかけてみてね。時間もあるしもっと相応しい人が与えられるでしょう。」という返事をしました。ところが呉さんの「頼み方」が功(?)を奏してか正式に執事会から教会にお手紙をいただきました。そんなつながりで今日メッセージの奉仕をさせていただけることを感謝しております。
2 回目の緊急事態言言も出てしまい、実際にお伺いすることができず残念です。私たちが対峙しているこの疫病は「交わり」を難しくするものだということを日々実感しています。私たちはつながり、交わらなければ生きていることにはならないのです。孤立して生きていくことはできません。今は苦心してつながりを維持する時なのでしょう。みなさまの健康が守られますよう祈りつつ、お会いできるときが与えられることを願います。
本日の聖書はマタイによる福音書 19 章 10-12 節です。「結婚」という切り口からいわゆる性的少数者の問題、セクシャルマイノリティの問題について考えてみたいと思います。
改めていうことではないかもしれませんが、キリスト教では「結婚」というものを神聖なものとして取り扱ってきました。カトリック教会では「結婚」は洗礼や聖餐と並ぶ「秘蹟」です。
「神が結び合わせたものを人は離してはならない」という聖書の言葉を宣言の言葉として、離婚することはゆるされないという風にもずっと考えられてきました。プロテスタント教会も例外ではなく、そんなに昔というほど昔ではない時代に「信徒は信徒同士で結婚してクリスチャンファミリーをつくって子ども達にも洗礼を受けさせて信仰に導くべきだ」というように考えられてきました。「考えられてきました」と申し上げましたけれど、それほど過去形になったと断言できることでもありません。キリスト教の中の話ではなく、世間一般にも「結婚してやっと一人前」という価値観が根強いです。これに「女性」ということが付け加えられると「子どもを産んで一人前」ということも合わせられてしまいます。
確かにひとりの人と人が出会って、いっしょに生きていく決心をして子どもが与えられていくというそのようなことは尊いことです。しかし、それが「しなければならないこと」として強制されていくと、人を抑圧するものになってしまいます。
「結婚するのが当たり前だ」という常識が支配している世界では、どのような人でも結婚しなければならないということを直接的に間接的に強制されることになってしまいます。「男性と女性はそれぞれ気に入った異性を見つけて結婚しなければならない」ということを違和感なく受け入れられる人ももちろん多くて、だいたいの人はそれが幸せだと考えます。しかし、それを強いられるとその人の「真実」を生きることができなくなる人もいます。例えば、「自分は男性(女性)で、本当は同じ男性(女性)が好きなのに」という人がいるとします。「男性は必ず女性と結婚しなければならない」という世の中では、女性(男性)と結婚しなければならないことになってしまうことになります。またそももの「結婚の前に恋愛自体に興味がない。いわゆる恋愛感情が全くない」人もいます。そのような状況で本人からしてみれば意に沿わない「結婚」という制度を強いられた結果、不幸なことが起こってしまいます。「出世のために結婚したけれど、その結婚は社会的な顔としての結婚で、子どもをつくったら指一本ふれず、家庭の外で気に入った恋人見つけて・・・」という人もいます。そのようにしたたかに生きていける人はまだいいのかもしれません。しかし、「ウソ」を強いられて苦しんでいる人も決して少なくありません。「本当は同性愛者なんだけど、それに蓋をしてだまって結婚して、異性であるその連れ合いに家族として大事にしたいんだけどウソをついてるのはつらいのでカミングアウトして、これまで家族としてつきあいながら外に恋人がいるのをその人にみとめてほしい」という葛藤をかかえている人もいます。きいていてややこしくなるのですけれど、そもそも問題をややこしくさせているのは「制度」の中に人間を無理に押し込めているからです。そもそも「結婚しなければならない」世の中でなければ、その人は自分自身やまわりにウソを必要はないのです。
聖書の中で結婚を勧める、もっというならば結婚を勧めて子孫を増していくことが祝福であるという風に読めるところはたくさんあります。その記事自体もひとつひとつ「本当にそうなのか」読み直していく必要がありますけれど、逆に「『結婚』しなくても祝福されている」と言ってくれるところはないのか・・・と探してみたら、やはりあるのです。そのひとつが本日の聖書マタイによる福音書 19章10~12節です。
この言葉はマタイ福音書のイエスとファリサイ派律法学者が離婚について問答をしている物語の最後に出てきます。律法学者が申命記の離婚の記述を立てにイエスに挑戦しています。離婚するのはいいことなのか悪いことなのかということです。それに対して、イエスは律法に書いているから「男性は妻をいつでもどんな場合でも離婚できるのだ」と思い込んでいるのは傲慢だということを神の創造の秩序のことから指摘して「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ 19:6)と宣言されたのでした。
その律法学者との問答をそばできいていた弟子たちが「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」(10 節)といいました。それに対してイエスがお答えになった答えが本日のところです。
11 節から 12 節にかけて「結婚できないように生まれついた者」「結婚できないようにされた者」「結婚しない者」と訳されている言葉があります。これはもとは同じ言葉で「宦官」とか「去勢された者」という意味の言葉です。耳慣れない言葉ですから差別的にきこえないのですけれど、生殖能力のないことを揶揄する差別語としても使われた言葉でした。現代でいうと「タマナシ」とか「種なし」とかそのような差別的な悪口の言葉です。
ここでイエスは「宦官」を三つのグループに分けています。一つ目は「生まれつき『宦官』だった人」生まれつき生殖能力がなかった人を想像できるでしょう。また当時の「男性としてのふるまい」をしていなかったためにそのように思われていた人も入るのでしょう。現代でいるセクシャルマイノリティの人はこの中に入るのではと考えられています。2 つ目は「人から『宦官』にされた人」。これは奴隷制や戦争で捕虜になったゆえに去勢された人や事故のために「宦官」になった人たちのことをいうのでしょう。三つ目が「天の国のための『宦官』です。ここがいちばん意訳がされているところですけれど、直訳にもどすと「天の国のために自分自身を『宦官』にした『宦官』」ということです。「自分自身を『宦官』にした『宦官』とは、官職を得るために宦官になった人たちや宗教的な理由で宦官になった人が想像できます。これに「天の国」とついているのです。神の国のために、あたかも去勢された男性のように結婚せず独身でいる人のことをいっているのです。
この 10~12 節の言葉はマタイ福音書にしか残されていません。マタイ福音書を書いた人たちが自分たちの状況に合わせてこれをイエスに言わせているのか、それとも他の福音書を書いた人たちが使わなかった史料をつかってここに入れたのか、2つの可能性があります。イエスに遡るなら、イエスとその弟子たちは「あいつらは宦官だ」と悪口を言われていた可能性があります。それに対して「いいじゃないか俺たちは神の国のための『宦官』だ。神の国のための『タネナシ』
だ」と相手の悪口を逆手にとって、自分たちのことをそのようにいっていたということです。イエスにさかのぼらかったとしても、いわゆるマタイ教団のひとたちが宣教のために独身をつらぬいていて「あいつらは『宦官だ』『タネナシだ』」と悪口を言われていた可能性があるのです。
それにたいしてそれを逆手にとって「そうです私たちは天の国のための『宦官』です『タネナシです』」といって活動をしていたということです。イエスないしイエス後の人たちの強さ、したたかさが見え隠れするようです。
このような記事は、異性愛強制社会の中で「結婚できない」「結婚したくない」人にとっては大きな希望です。当時も結婚もせず、また当時の男性として当たり前のふるまいをしなかった人たちは奇異な目で見られたでしょう。それにも関わらず信念を通してそれを貫いた確かにいたのだということです。「『宦官』だというのなら私たちは神の国のための宦官だ」ということを、レッテル貼りを笑い飛ばしていた人たちがいたということです。
私も、聖書の中に残されているこのような痕跡、記述に励ましを受ける者です。私は FtX パンセクシャルの性的少数者です。女性として生まれましたし「女性として取り扱われて生活」していますが、ほんとうのところ自分が女性だとも男性だとも思えず、また好きになる人は性別を問わないということです。教会はいいところだと思いつつなかなか洗礼を受ける気になれなかったのは「聖書を読むと自分が傷つく」からです。「同性愛者は死ね」と解釈されうる聖書箇所もあれば、「女性は結婚して子を産むことで救われます」と書いているところもあります。自分に向けられていると思ってしまって苦しんでいたのを思い出します。洗礼を受けたあと「コンテキストを読む」聖書の読み方があたえられました。聖書には宝が隠されているのに、「表面的な読み方」のせいでその宝に行き着くのを妨害している。聖書には宝が隠されていることを示す良い教師となりたい、というのが私の最初の献身でした。
しかし、一方でそのような差別を笑い飛ばすことができず文字通り死んでいく人たちもいます。
記憶に新しいところでは 2015 年に一橋大学の法科大学院に通っていた男子学生が、同性愛者であることを友達に打ち明けた結果、自死においこまれたという痛ましい事件が起こりました。20 年前に比べても、また 10 年前に比べても同性愛に関する事柄についても、いわゆる性同一性障がいの方への事柄も理解が進んだようにみえるこの現代でも、「バレたら死ぬしかない」と思ってしまっている人も、また現に正体を明かした結果、周りに受け入れられず追い込まれてしまう人も少なくありません。そもそも「差別を笑い飛ばす」ことを少数者に求める状況自体が少数者に犠牲を強いています。何かを犠牲にして居場所を確保させること自体が、セクシャルマイノリティに限らず数者に対する差別であることをわきまえていたいと思います。
「結婚」ということについていえば、結婚することもしないことも恵みです。「天の国のために結婚しない者もいる」ということを引き出して神のために献身するのがいちばん尊いことだとことさら強調するのも間違いですし、また聖書のいろいろなところを読んで「結婚することが大前提だ」ということも同じように間違っています。
大切なことは、その人がその人の人生を生きることができること、その人の「真実」を生きることができることです。その人が適応して生きていくためにその人が置かれている現実を笑い飛ばして生きていくことを強いてはなりません。その人の真実を生きることができる世界をつくることは「神の願い」といって良いのではないでしょうか。
お祈りいたします。
すべてのいのちの源である神さま、御名をあがめて賛美します。
聖書を丁寧に読むと、抑圧にめげず笑い飛ばしつつ力強く生きた先人たちに出会います。差別を引き受け、明るくたくましく宣教のわざに励んだ最初期のひとたちの姿に励ましを受けます。一方、現状の差別や弱いものいじめの中でその事柄を「笑っては済まされない」中で生きざるを得ず、自分の心と身体を蝕んでいる仲間たちがおります。なによりもあなたがそこから回復させてください。すべての抑圧を笑い飛ばす必要のない社会を実現するため、私たちを用いてください。
コロナ禍にあって私たちの交わりが弱まることなく、むしろ強められますように。このような時こそ、私たちがつながりを大切にし、愛し合うものとなるようにさせてください。日々、あなたのために働いている、たたかっている方を強めてください。心やからだに痛みを覚えている方に、あなたがすみやかに癒しのみ手を置いてください。
この祈りを抑圧を笑い飛ばすあなたの子、キリスト・イエスの御名によって祈ります。
2021
05Feb