四谷新生教会2020.10.25
マタイによる福音書10:26-33
「恐(おそ)れず、畏(おそ)れる」
最近はあまり言われなくなりましたが、世の中の恐ろしいものとして、
江戸時代から「地震、雷、火事、親父」が伝えられています。この中の
親父については、今では恐いものでなくなったように思われますが、地
震や雷、火事は予期せずに起こり、大きな被害を与えたり、尊い人命が
失われることもありますので、確かに今を生きる私達にとっても、恐ろ
しいものの代表だと言えます。
恐ろしいものに襲われるということで、ふと思い出したのは、今日の
聖書個所の前、マタイによる福音書の8章に書かれている、主イエスの
弟子達が舟でガリラヤ湖を渡っていた時に、突然嵐に襲われ舟が転覆し
そうになり、弟子達が「主よ、助けてください。おぼれそうです」と懇
願し、その時に主イエスが、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
と叱り、嵐を静めたという話です。ここでは弟子達が、嵐という目に見
えるものを怖がったがゆえに、信仰の薄い者と咎められてしまったので
す。信仰とは未だ見ていない神を信じることです。まだ見ていないもの
を真実とすることです。そして、目に見えるものによって左右されない、
揺り動かされない神の国を確信することです。弟子達が舟で湖を渡ると
いうことには、弟子達に信仰とは何かを分からせる目的があったのです
が、残念ながら弟子達は理解することができず、主イエスから「信仰の
薄い者たちよ。」と言われてしまったのです。
さて、今日の聖書の冒頭も、「人々を恐れてはならない。」という言葉
で始まっています。日本語にはなっていませんが、この言葉の前に「だ
から」という接続詞があるので、前の部分の24節と25節を受けてい
ます。ここでは、主イエスの弟子は、師である主イエスを超えることは
ないけれども、弟子が主イエスに倣うことができるのであれば、それで
十分なのだと言われています。それは、人間がともすれば、努力をして
知識を蓄え、経験を積むことで、神のごとくになれると思い違いをして
しまうことへの忠告でもあります。
また、家の主人とも呼べる主イエスが、人々から悪霊の頭ベルゼブル
と非難されるのなら、弟子である家族の者はもっとひどい言い方をされ
るだろうと言われています。実際、弟子達は新約聖書の使徒言行録11
章26節で、人々から「キリスト者と呼ばれるようになった。」と言わ
れていますが、この「キリスト者」という呼び方には、「キリストかぶ
れ」と言った軽蔑した意味が込められていました。師であり家の主人で
もある主イエスへの迫害や憎しみは、同じように弟子達にも及ぶものな
のです。
このように弟子達が置かれた苦難の現実を踏まえて、主イエスは
「人々を恐れてはならない。」と言われているのです。では「恐れては
ならない」理由は何かと言えば、「覆われているもので現されないもの
はなく、隠されているもので知られずに済むものはないから」です。
「覆われているもの」と「隠されているもの」とは、二つの意味があり
ます。一つは主イエスを迫害する者への神の裁きのことであり、もう一
つは弟子への神の国の実現のことです。いずれにしても、この世で福音
を宣べ伝える者には、様々な苦難があるけれども、主イエスによって、
神の国は現されるだから恐れる必要はないと言っているのです。
主イエスの「覆われているもので現されないものはなく、隠されてい
るもので知られずに済むものはないからである。」という言葉を、パウ
ロは新約聖書コロサイの信徒への手紙3章1節から4節の中で、「あな
たがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共
に栄光に包まれて現れるでしょう。」と別の言い方をしています。だか
ら、パウロは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれない
ようにしなさい。」と励まします。「上にあるもの」とは神の国のことで
す。神の国を求め続け、心に留め続けることを命じているのです。
主イエスは弟子達に、「人々を恐れてはならない」理由を話した後に、
「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打
ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」と、大胆に福音を宣べ
伝えるよう命じられます。ここでは、これまで主イエスが、弟子達だけ
に教えてきた神の国のことなどについて、人々の前で大胆に宣べ伝えな
さいと命じているのです。福音を宣べ伝えることは、先程も触れました
が、この世では様々な苦難があります。そのような中で語るのには、
大変な勇気が必要ですし、覚悟も必要です。
そのためにも主イエスは再び、「恐れるな」と命じます。ここでは何
を恐れないかと言えば、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ど
も」です。主イエスを迫害する者達が、たとえ弟子達のこの世での命を
奪ったとしても、主イエスによって、神からの命に生き続けることがで
きると言うことです。まさしく、ローマの信徒への手紙8章35節の
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」
かなのです。
主イエスは畏れるものについても教えます。それは、「魂も体も地獄
で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言うことです。そのお方は
まさしく主イエスを通して示された神のことです。ここでの「恐れる」
の言葉も、恐怖の恐れを用いていますが、意味合いから言うならば、
「畏敬の念」の畏れが適切だと思います。この畏れの意味は、神の圧倒
的な存在に対して慎んだ気持ちや態度になることです。聖書の神は、す
べての人の罪を裁かれる厳しい方です。しかし、その罪の責任を人に負
わせるのではなく、主イエスに身代わりとして担わせ、罪なる人を赦し
救われ、神の国へと導き入れて下さる方でもあるのです。神を畏れ、信じ、
愛するならば、恐怖の恐れは取り去られるのです。
聖書の神が如何に主イエスの弟子達を愛し、大切にされているかが、
「二羽の雀」と「髪の毛」の例えから伺うことができます。「二羽の雀」
では、二羽が1アサリオンで売られていました。それは、貧しい人のた
めの最低の神へのささげものでした。1アサリオンは1デナリオンの1
6分の1でしたので、雀は一羽では値段が付かないほど価値のない小さ
い存在だったということです。その一羽の雀にも、神は目を留めておら
れると主イエスは言われます。そして「髪の毛」では、誰もが数えるこ
とをしない髪の毛一本までも、神は数えられているというのです。これ
も、神は一人ひとりのすべてを知っておられ、顧みて下さっている
ということです。
私は30年程前に、北海道北見の教会から横須賀の教会へ転任しまし
た。教会員10名程、園児20名程で、当時築70年程の木造の小さな
教会と幼稚園でした。その2階が住居でした。私も妻も着任してから毎
日、朝から夜まで働く日々が続き、疲れもあって夜10時前には寝てい
ました。そんなある夜中の午前1時半頃のことでした。「カタカタ」と
いう音で目が覚め、寝室の引き戸を開けると、ドアを開けておいた隣の
私の書斎に明かりが点いていて、一人の男性が横向きでプラスティック
の書類トレーを出し入れしていたのです。相手も私が開けた引き戸の音
に気付き、顔を見合わせました。そして、私が「誰ですか」と声を掛け
たところ、相手はおもむろにポケットから折り畳み式のナイフを取り出
し、刃を出しました。その時の「カチッ」という音は今でも耳に残って
います。それまでは何か夢を見ているような感じでしたが、ナイフを見
た瞬間、「これは強盗だ」と一気に緊張が高まり、「主よ」と心の中で呼
び掛けていました。不思議と相手を恐いとは思いませんでした。とにか
く大きな声を出すなど、相手を刺激しないよう気を付けました。また、
目を覚ましていた妻とぐっすり寝ていた2歳の我が子を守らなければと
心を強くしました。結果的に、相手は私の方にあった階段から逃げるた
めにナイフを出したようです。その人は二ヶ月後位に、他の幼稚園に侵
入中に現行犯で逮捕されました。私は、私達家族に危害がなかったこと
もあると思いますが、その人への恨みの気持ちはありませんでした。そ
れ以上に、主イエスを信じる信仰の力、恵みに喜び、感謝でした。
主イエスの弟子達は、この世では小さくて弱い、貧しい人達でした。
そのような弟子達に対して主イエスは、神はあなた方のことをすべて知
っておられ、認めて下さっているから、恐れることなく、神の国、福音を
宣べ伝えなさいと励まします。
この世では力がなく、小さく弱い弟子達の神の国、福音を宣べ伝える
言葉は、この世的には、けっして雄弁で説得力のある知的な言葉ではな
く、たどたどしく、口ごもるなど貧弱な言葉だったかもしれません。し
かし、神の圧倒的な存在に対して慎んだ気持ちや態度という畏れをもっ
て語られた言葉は、確かな福音、神の良い知らせとして宣べ伝えられた
ことだと信じます。
(祈祷)
主なる神様。あなたのみ名を崇め讃美いたします。
あなたの体である四谷新生教会の主日礼拝が、あなたによって、日曜毎に守ることができていますことを感謝いたします。
私達は日々の生活において、目に見える様々なことに恐れを抱くことがあります。そのようなときにこそ、すべてのことを支配され、命を与えて下さっている、目に見えないあなたに全幅の信頼を寄せる信仰を確かにできますよう支えて下さい。
これらのお祈りを主イエス・キリストのみ名を通しておささげいたします。アーメン。