四谷新生教会

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2020
10Oct

「魂の回復」 佐藤貴仁 神学生

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2020.10.11 四谷新生教会説教
佐藤貴仁

本日の聖書箇所であるマルコによる福音書第5章の1節には、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」と記されています。このゲラサ人の地方とはどこなのかと聖書地図を開いてみると、デカポリス地方に「ゲラサ」という町を見つけることができます。このゲラサの町の北にガリラヤ湖があることから、一行はゲラサ側からみた向こう岸であるガリラヤ地方から来たことが分かります。この「一行」とはイエス・キリストとその弟子たちです。つまり、主イエスと弟子たちはガリラヤ地方からガリラヤ湖を渡って、ゲラサ人の地に着いたのです。それはイエスの意志によるものでした。直前の第4章35節に、主イエス自身が「向こう岸に渡ろう」と言ったことが記されています。イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡ったのは、本日の箇所に語られている一つの御業のため、ある人を救うためでした。しかし、次の21節を見ると一行は、すでに元のイスラエルの地へと戻っています。つまり、その一人の者を救うために、主イエスは4章の最後の部分で語られていたあの嵐の湖を渡ってゲラサにやって来たのです。
では、そのイエスに救われた人は、どんな人だったのでしょうか。2節には、その人は「汚れた霊に取りつかれた人」とあります。さらに、続く3節から5節において、その姿を「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と描かれています。こうした不気味な恐ろしさを湛えたその姿から、私たちはこの人が重い病に冒されていることが分かります。しかし、ここで注目すべきことは、病の重さを推し量ることではありません。私たちがしなければならないのは、この男の姿を通じて、聖書が何を語っているのかをいかに読み取るか、ということでしょう。
まず、この男の住んでいた場所を考えてみたいと思います。当時のユダヤ人にとって、彼が住んでいた「墓場」は汚れた場所であったと言われています。また、死者の居場所であることからも、普通に人が住む場所ではないことは容易に想像がつきます。つまり、この男は、普通の人と同じ生活をすることができなくなっていたと考えることができます。なぜなら男は、人が住んでいるとは考えにくい墓場という汚れた場所に住んでいるということからも、人間社会の中で人と共に生きることが難しくなり、死の領域である墓場にしかいることができないからです。このことから、他者とは隔離された生活を余儀なくされていたのではないかと考えることができます。
つぎに、この男の置かれた立場について考えてみたいと思います。なぜ彼は他者と共に生きることができないのでしょうか。「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」という一文が、それを示しているのではないかと思います。人々が彼を鎖でつなぎとめておこうとしたのは彼が暴れ回り、周りの人々に危害を加えてしまうからだと考えることができます。つまり、彼が他者と一緒にいることができないのは共にいる人を傷つけてしまい、人間関係を破壊してしまうからです。しかしそれを自分自身も、また家族はじめとする周囲の人々も、誰も止めることができないのです。彼が一人で墓場に住まなければならなかったのは、家族にも見放されてしまっていたからですが、それは家族が冷たかったというよりも、家族でさえもどうしようもない攻撃的、破壊的衝動が彼を捕えているため、それがひとたび現れると、どんな足枷や鎖をも砕き、引きちぎって周りの人々を傷つけてしまうからなのです。それほどに大きな力が彼を捕えていた訳です。それは汚れた霊、悪霊の力でした。彼の中には大勢の悪霊が住んでおり、それは豚二千匹を怒濤の如くに走らせるほどの力だったとうしろに記されています。そのようなすさまじい力で彼は鎖や足枷を破壊していたのです。
さらに、この男の生活について考えてみたいと思います。この人は「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」のですが、これは、人との繋がりを失い、完全に孤独に陥った彼が苦しみと絶望の叫びをあげながら、我と我が身を傷つける自暴自棄の日々を送っていると捉えることができます。それは彼が生きながら死に支配されてしまっている、いわば死も同然になっているということです。墓場を住まいとしているということにはそういう意味もあるのではないでしょうか。
この男の話を読んだ時に、男とある一人の男性の姿が重なりました。その人は私が研究の対象として、縦断的にインタビューをしてきた台湾人の男性です。彼は、台湾における日本統治時代に「日本人」として生き、日本軍特別志願兵の訓練中に16歳で終戦を迎えました。それまで「日本人」として生きていた過程で、終戦を機に「台湾人」となった彼は、公的な日本語使用が禁止された戦後の戒厳令下において、日常的に使っていた日本語を自ら「封じて」しまったと言います。また、日本軍の志願兵であった過去の露呈により、粛清されるかもしれないという「恐怖心」に駆られた生活は、「毎日が苦悶」であったと語りました。このように、社会によって自分の過去が葬られてしまった人生は、その存在を否定された人生とも言えるでしょう。日本語で物事を考え、日本語で人格を形成し自らを培ってきた16歳まで人生が、戦後以降なかったことにされた社会を生きてきたというその状況は、現実でありながらも、どこか現実でない毎日であったかもしれません。また、新たな社会の言語となった中国語を身につけることを拒んできたため、他者との繋がりが持てなかった状況は、隔絶された場所に生きているような気持ちだったのではないでしょうか。彼と出会ったのは、台湾にありながらも日本語で活動を行っている高齢者デイケア施設でしたが、その中でも他の会員やスタッフと馴染めないこともあり、周りとの衝突も少なからずあったと聞きました。しかし、それでも自らの意志で施設に通い続けていたその姿は、傷つき傷つけながらも、それでもどこかで他者との関わりを希求するこの男の姿そのものであると言えます。
このように、戦後の社会から隔離され、自分を培ってきたことばを奪われ、新たな言語や社会という枷をつけられ、「志願兵」であったというレッテルを貼られ、謂れなき「危険分子」として時に命までもが狙われたりする世界の中で、他者に対して心を閉ざし、上手く社会に馴染めなかったその姿が、墓場で暮らし、枷をはめられ繋がれ、そして、悪霊が取り憑いた自分を痛めつけている男と同様に重なって見えたりはしないでしょうか。
さて、男の話に戻ります。対岸からやってきたイエス一行でしたが、その男は遠くから一行を見るなり走り寄ったとされています。しかし、それは主イエス・キリストの救いを求めてした行動ではありません。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」ということばを伝えるためです。しかし、ここに一つの矛盾が読み取れます。イエス一行を見て思わず走り寄って近づいたにもかかわらず、そこで発せられたのは「かまわないでくれ」という、自ら近づいていったという行為とは相反する言葉だったからです。仮に、イエスに本気で関わりたくないと思ったら、決して自ら近づくことはないはずです。それなのに走り寄ったということは、「行動は雄弁である」という名言が示すとおり、「かまわないでくれ」と発したその言葉とは裏腹に、イエスに救ってほしい、イエスなら救ってくれるはずだという本能的な行動から出たものだったと言えるのではないでしょうか。
しかし、発せられた言葉は「かまわないでくれ」というものでした。ここに、解き放たれることを拒む姿があります。だがこれは男の言葉ではなく、彼に取り憑いている悪霊の言葉だと考えられます。悪霊は男から彼自身の言葉を奪い、代わりに悪霊の言葉を語らせているのです。つまり、悪霊の目的というのは男にそう言わせることで、彼と神との関係を断ち、神から遠ざけることにあったのかもしれません。このように、口先では悪霊に汚された言葉を発しながらも、心の奥にある魂は悪霊に抵抗し、走り寄って救いを求めたということが、近づきながらも拒むというちぐはぐな行動として表に現れたのでしょう。
この男にイエスは名前を尋ねました。すると、男は「名はレギオン。大勢だから」と答えたのです。この「レギオン」はローマ帝国の軍隊を表す言葉でした。当時の「1レギオン」は、およそ6,000人という多数の兵士からなるものであったそうですが、現代では転じて「多くのもの」を指す言葉として使われ、例えば“legionofpeople”というと「大勢の人、大群衆」を意味します。よって、「レギオン」は特定の個人名を持たない大勢の中の一人であり、すなわち、無個性の人を表すことになります。こうした部分も、先ほどの台湾の男性に重なります。なぜなら、彼は戦後の生活において、できるだけ目立たないように群衆の一人となるべく、息を潜めて生活していたと語ったからです。そこに本来の自分の姿があったとは言えないかもしれません。しかし、そうなってしまった原因は元を辿れば、かつて台湾を支配した大日本帝国に他なりません。戦争という異常な状況がもたらしたとはいえ、一人の人間を苦しみに追いやってしまったかつての日本は、男を墓場に追いやったゲラサの人々のありようともまた重なります。
この追いやられた男に取り憑いた悪霊に、イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と言うと、汚れた霊は男から去る代わりに、その辺りの山で餌を漁っていた豚の大群を前に、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」とイエスに懇願しました。そして、イエスがそれを許したので、悪霊は豚の中に入ったのちに、二千匹ほどの群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々と溺れ死んだのです。これは、イエスが男から悪霊を追い出しただけでなく、その悪霊を滅ぼしたことを示す出来事であったと言えるでしょう。また、「レギオン」と名乗った悪霊は、イエスには絶対に勝てないことを知っていたのかもしれません。なぜなら、神の子イエスは人の魂に命を与えて生かす存在だからです。つまり、人の魂が命を得ることは神に愛される一人の「個」としてその生を回復することであり、またそれは、「個」が持つ魂の回復であるとも言えます。神に魂を吹き込まれた者は「大勢」の中の一人ではなく、本来の個性を持った一人の人間となるのです。
こうして、悪霊の支配から解放された男の姿が15節に語られています。そこには彼が「服を着、正気になって座っている」と記されています。悪霊に取り憑かれていた時は裸だった彼が服を着ているということは、人間としての生活秩序の中に戻ったと捉えることができます。そして彼は座っていたのです。どこに座っていたのでしょうか。ルカによる福音書第8章にも、これと同じ話が記されています。そこでは、彼は正気になって「イエスの足もとに座っている」と語られています。彼はイエスの足もとに座って、弟子たちと共に、主イエスの御言葉を聞いていたのです。イエスに対して「かまわないでくれ」と言っていた者がイエスの足下に座り、御言葉に耳を傾け、イエスに聞き従う者となるということこそが、悪霊の支配から解放され正気に戻った、つまり人間性を取り戻したということになるのではないでしょうか。
悪霊は男を縛りつけるあらゆる束縛を断ち切り、自由に生きるようにと彼をそそのかしてその力を与えました。その結果、彼は自分の言葉を奪われ、悪霊の言葉を語るようになりました。つまり自由になるどころか悪霊の奴隷となり、周囲の人々を傷付け、自分も孤独に陥り、墓場でしか生きられない、罪と死に支配された者となってしまったのです。そこからの解放は、悪霊に滅したイエス・キリストの下に置かれることによってもたらされます。主イエスの足下に座って御言葉に聞き従う者となる時にこそ私たちは、悪霊の支配から解放され、正気になって生きることができるのです。
しかしこのことは、現代に生きる私たちに重ね合わせることもできます。例えば、社会問題の一つとして取り上げられるひきこもりですが、日本には40歳から64歳の中高年のひきこもりが60万人以上いると言われていて、そのきっかけで最も回答が多かったのが「退職したこと」だそうです。職場の人間関係などに躓き、辞めたことで一時的に自由になったとしても、次の転職先が決まらないままであったりすると、それが社会的孤立のはじまりになってしまうのかもしれません。また、社会との接点が見出せず、焦りから自暴自棄になり、やがて塞ぎ込んでしまったりすることも多いと聞きます。また、そうした人間の姿は先ほどお話ししたかつて「日本人」であった台湾人男性にも重なる部分があります。戦後の彼は、人と関わることに恐怖を覚え、できるだけ他者との繋がりを避けて生きてきました。しかし、そうした状況は彼を自由にするのではなく、むしろ社会からの孤立へと追いやっていったのです。そして、老年期にさしかかった時に偶然日本語で活動しているデイケアセンターの存在を知って通い始めるようになり、生きづらさを抱えつつ、時に周囲との軋轢を生みながらも、デイケア施設の中で同じ境遇の人たちやスタッフとの交わりから、徐々にかつて「日本人」であった自分自身を認めらえたことで、自分を解放していくことができたのです。この変化は一人の人間の尊厳と魂の回復であると私は捉えました。また。これはまさにイエスが男から大勢の人である「レギオン」を追い出し、一人の「個」として男の存在を認めたことで、「服を着、正気になって座っている」彼が見せた変化にも通じるのではないでしょうか。つまり人は、個性を持った一人の存在としてこの社会を生きなければならない生き物であり、それを自己と他者が認めることで初めて名を持つ人間として存在することになるのです。
正気に戻った男は、イエスが去る時に「一緒に行きたいと願った」もののそれが許されず、逆にイエスに「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われ、自分の家へと返されたのです。それは、人は社会において人との関係性の中でのみ生かされているということをイエスが知っていたからではないでしょうか。悪霊に取り憑かれた男は隔絶された場所に住み、孤独に耐えながら、自らを傷つけることでしか生きている証を得ることができませんでしたが、それは他者という存在が見えないからこそ、そのような苦しみに陥っていたのだと思います。
そして男は「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」と20節にあるように、家族、同胞の下へ戻り遣わされ、そこでイエスによる救いの恵みを証しし、宣べ伝えていきました。私たちもそのように人との交わりの中で、イエスによる救いの恵みを証ししていく者でありたいと願います。

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