2020年9月6日四谷新生教会
説教「光の子の生活ガイド」
エフェソ5章6-20節
信仰とはどこにあるのでしょうか。頭でしょうか、心でしょうか。それとも体(行動)にあるのでしょうか。信仰の本質は教理にあるのか、実践にあるのか。
エフェソ書全体を読むと、その両方であることがわかります。まず1章から3章で、キリストによる救いとは何であるのかが語られた後、4章以下に「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み・・・」と、生活の中での具体的な事柄が語られて、生活態度や生き方においての実践が勧められます。教理と実践はどちらも不可欠なのであって、頭と心で受け止められたことが、生き方になって現れ、二つが一つとなってこそ意味を持つというものなのですね。
今日の箇所は、キリスト者の生活実践に関するきわめて具体的な教えです。だから、実践的な話をしなければならないと思います。理屈だけ語っていてもまったく意味がないところだからです。でも、その実践的教えに入る前に確認しておくべき前提があります。
前提とは、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」(5章6節)ということです。これが起点になっています。以前は暗闇だったというのは、性格的にネクラだったとか、暗い環境に生きていたということではありません。性格とか環境の問題ではなく、「あなた自身が闇だった」ということです。それを認める必要があるのです。しかし今はそうではない。光となっているのだ!なぜならば、光なるキリストが来られたからです。
光にされされるというのは実態が暴露されて自分の恥部さえ明るみに出されてしまうことであって、恐ろしいことであるに違いないですが、しかし「だからおまえは失格!」と切り捨てられるのではなく、その反対に「明らかにされるものはみな、光となる」というのです。光に照らされると光になるというのです。自分が発光体となるというよりは、発光体によって照らされてその光を反射して光るものになる、ということでしょうか。
闇だったあなたが、今は人に明りをもたらす「世の光」として燭台の上に置かれている。だからあなたがどう生きるかは、あなた自身のみならず、この世界のために重要なことなのだ。これが、聖書の発想です。そしてそれゆえに、生活の中で身に着けるべき実践的な教えが語られるのです。
○「何が主に喜ばれるのかを吟味しなさい」。
人は日々判断をしながら暮らしています。どちらの道に行くか、お金や時間をどう使うか、この誘いを受けるべきか断るべきか・・・。小さな判断の積み重ねの中で、実は重要な方向付けがなされていくのです。だから、判断にあたって常に「主に喜ばれることは何か」と考えることが重要。それを癖にしなければなりません。以前、WWJD(WhatwouldJesusdo?=イエス様だったらどうするかな?)というロゴの入ったリストバンドをもらいました。そういうのはあまり好きではないので、すぐにどこかにやってしまいましたが、あとから「あれは自分に必要だったな」と思うことがありました。
難しい状況で判断を迫られることがあります。保身のために思わず嘘をついてしまいそうになったり、負担を減らしたいがために見て見ぬ振りをしたり、個人的感情のために無理を通そうとしたり。そんな時、腕時計やスマホが光ってWWJDというメッセージが浮かび上がる仕掛けがあると良いのかも(!?)と思ったりします。生活の中で、生きている場面場面で「何が主に喜ばれるのか」を考える癖をつけることが何より必要なのです。
〇「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」。
これがわたしたちの世界観であり、人生観であり、根本にある考え方なのです。これを忘れてはなりません。ともすると、わたしたちは「悪いことも、見つからなければ、なかったことになる」と思ってしまいます。安倍政権が終わろうとする今、わたしたちが余程気を付けていないと、幾多の不正がそのまま闇のうちにごまかされ、片付けられてしまう恐れがあります。しかし、そういうことがあってはなりません。関東大震災の後に起こった朝鮮人の大虐殺、戦争中の性暴力などについて、「それは出鱈目だ」と歴史の事実を捻じ曲げてしまおうとする動きが見られます。自分たちの国は正義であり悪いことはなかったと歴史を作り変えてしまうのは、まさに「実を結ばない暗闇の業」です。過去の罪はなかったことにしたいのが人情というものでありますが、しかし、なかったことにはできないのです。本当にすべてのものは光にさらされて、明らかにされるのだ。そこに立つ時、なすべきことが見えてくるはずです。
「すべては必ず明らかになる」、いい意味でも悪い意味でも。隠れた善い業も明るみにでるし、隠れた罪も明るみに出る。それを基本にして何事も行う。そういう癖を身につけるのです。
○「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」。
時代の上昇気流をつかんで成功せよ、というのとは逆の発想です。「よく用いる」のギリシア語はエクサゴラゾーで、「市場の外へ買いだす」といった意味。「贖う」とも訳されます(ガラテヤ3:13、4:5)。悪い空気の中に閉じ込められているから、それを救い出して良い物とする、という使命が与えられているのです。
○「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」。
晴天なら感謝して荒天なら不貞腐れ、といった程度ではない、深く広く感謝する、大きな感謝力を身につけるためには、賛美を歌うことです。詩編から歌い、聖書の中にある賛歌から歌い、そして新しく創作され続ける霊的な歌をもって。新型コロナ感染拡大の中にあって、わたしたちは今、共に大声で歌うことへの制限を加えられていますが、注意深く、感染しないよう対策をしっかり取りつつ、しかし、
「良い習慣は才能にまさる」と言います。確かにそうです。いくら才能のあるスポーツ選手でも、怠ける癖がついたり、悪い生活習慣が身についたら、一線で活躍し続けることはできません。この格言は、スポーツや学問といった分野と同じように、いやそれ以上に、信仰生活にあてはまる教えではないでしょうか。わたしたちは光の子です。光の子としての良い習慣を身につけようではありませんか。ジェームス・スミスというキリスト教哲学者が、Youarewhatyoulove(あなたとはあなたの愛しているもの)という本を書いています。それは、人間というのは日々やっているようなものになっていくのだ、というところから礼拝や祈りの習慣の大切さを論じている本です。「何をみつめているか」というのがものすごく大事なのです。礼拝を馬鹿にしてはいけません。光なる神様を仰ぎ、みつめるならば、光のようになっていく。人は、あこがれているもののようになっていくのです。
悪い時代にあっても、いや悪い時代にあるからこそ、光として置かれていることの使命を大切にしようではありませんか。
<祈り>
主よ、以前には暗闇であったものを光としてくださってありがとうございます。
光の子として生きるための良い習慣をわたしたちに与えてください。
主イエス・キリストにあって。アーメン。