20200830
ヨハネによる福音書 8:3-11
「いつくしみふかき」
本日はお招きいただきまして四谷新生教会のみなさんと共に礼拝をささげられますこと感謝です。
コロナウィルスの影響があり、教会でも、学校でも、職場でも、ご家庭でも皆さんの周囲にはさまざまな変化があることだと思います。急な変化の中でお疲れを覚えていらっしゃる方も多いと思うのですがそんな中であっても、いやそんな時だからこそこころを合わせて聖書に聞き、教会の垣根を越えて共にお祈りできますことを感謝致します。
現在自分は牧師業の傍ら公立小学校にて小学生と多く関わる仕事を週日はしています。現在の小学校の様子を見ていて最初に感心したのは、先生方が児童をほめることがとてもお上手だということでした。時には強めの口調で注意されることもあるのですが、基本的に今の教育は「ほめてのばす」ということにシフトしているのだなあと、昭和生まれの人間は反省させられている次第です笑。
子どもはウソとホントを見分けることに関して敏感なので、もちろんやみくもにおだててほめているわけでもないです。例えば、前を向いていない子がいるとして、その子を名指しで注意するよりも、きちんとできている子を名指しでほめるという感じです。そうすると、周囲の子たちもオッ自分もちゃんとしてみようと思う感じです。
批判や否定されることに弱く、正当にほめられると嬉しくてもっとがんばりたくなる、それは子どもも大人も変わらないと思います。褒められることとは、自分を肯定すること、自信を持つことにつながります。
かたや、以前高校生と多く関わる仕事をしていた時に、自己紹介として自分のいいところを10個書いてくださいとアンケートをとったことがあるのですが、なかなかみんな書けなかったことを思い出します。ふだん親や大人に注意されがちな欠点ばかりが先に思いついてしまうようでありました。欠点も裏を返せば長所だからと言ってもなかなか難しいようでした。自分もそうかもしれません。最近読んだ本の幾冊かに、この国の人間は自己肯定感が他国に比べて大変低いのだと記されていました。自己肯定感が低いと他者を否定することで自己を肯定するようなことにも陥りがちなのでそんなことがいじめの一因となっているのかもしれません。
そんなこの国の状況の中において、大いなるものに幼い頃から、そして今も存在をしっかりとうけとめられているということを知っているということは大切ではないかと思っています。今日の聖書もひとりのひとの存在の肯定、そんなことに関わるところです。
少し本日の聖書のあらすじを追ってみます。
この時イエスはエルサレム神殿へ、朝早くやって来ました。すると民衆が皆、イエスのところへやって来たので、イエスは腰を下ろして、何かを教え始めました。そこへ「律法学者たちやファリサイ派の人々」が、突然一人の女性を連れて入ってきます。そしてイエスに向かって、こう言いました。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4~5節)。
実のところ、彼らは、イエスの判断を仰ぐために、このようなことをしたのではありませんでした。6節にあるように「イエスを試して、訴える口実を得るため」にしたのです(6節)。一種の罠でありました。
この時、イエスは、一体何の話をしていたのでしょうか。それはわかりませんが、もしもイエスが「その女をはなしなさい、ゆるしなさい」と言えば、彼らは、「律法を無視するのか」と言ったでしょう。そうかといって「そんな女は石で打ち殺せ」と言えば、民衆の心がイエスから離れていってしまうでしょう。どちらになっても、彼らにとっては都合のいいことになると考えたのでしょう。
彼らはイエスの答えを待っています。「どうだ。さあどう答えるか」と、勝ち誇ったように待っていたのではないでしょうか。しかしイエスはすぐには答えません。座ったまま、地面に指で、何か書き始めました。興味深いことに、イエスが何か書かれたということが聖書に出てくるのは、このところだけです。何か書き始めた、とのみあるので、絵だったのかもしれません。イエスは一体何を書いたのか、それも興味のあるところですが、聖書には書いてありません。
書いてない以上、何を書いていたのかということよりも、沈黙そのものに意味があるということが言えるでしょう。
沈黙といえば、イエスが十字架にかかる前、ピラトの裁判を受けた時も、イエスはじっと沈黙していました(マタイ27:12~14)。イエスは目先の解決ではなくもっと先を見ているようです。沈黙には沈黙のメッセージがあることを思います。
イエスは、じっと黙ったまま、何かを書き続けます。彼らはしつこく問い続けます。イエスは、とうとう身を起こしてこう言いました。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。
これは、誰も予期していなかった言葉でした。沈黙のあとだけに、ここには、聞く人に有無を言わせぬ程の迫力、本物のみが持つ迫力があります。誰もこの言葉に対して、反論することができません。イエスは、再び腰を下ろして、また地面に何か書き続けました。沈黙が続きます。その間に、今か今かと、イエスの答えを待ち受けていた人々が、一人また一人と立ち去ってしまい、最後にはイエスとこの女性だけになりました。
今日の箇所では、自分の事を簡単に棚上げして、他者を簡単に責めている人々が描かれています。例えば性別や民族やセクシュアリティーにおいても、自分とあの人は違う、自分にはああいうところはない、というときに、ひとは簡単に外側に身を置いて相手を責めてしまいがちです。あるいはいくつか同じカテゴリーに属すひと同士でも、自分とあの人とは違うということで自己を確立しがちです。けれども相手を否定したところにある肯定は本当の肯定ではありません。それは自分のことも他人のことも大切にしていないのです。
イエスのことばは、「自分は違う」と自分を外に置いて、イエスと女性を見下して「この女性を死刑に値するような罪人とイエスが判断するかどうか」ということにばかりに注意が向いていたひとの気持ちを全く別次元のところに向けるものでした。
この話はこの女性の罪をイエスがゆるしたという話ではなく、文字どおり「彼女を罪に定めない」イエスの話です。それは人間というものに対するもっと根源的なイエスのゆるしの話といえます。イエスの肯定の話といえます。
自分はここからは、ヨハネ4章に書かれているサマリアの女性とのやり取りを思い出しました。あの時サマリアの女性はまず、外国人である自分にイエスが「水を飲ませてください」と頼んできたイエス、その分け隔てない態度に驚きます。更にイエスは幾度も離婚し現在法的な結婚はしていない彼女の身の上を知った上で「あなたの(いわゆる)夫を呼んで来なさい」(16節)と言っています。サマリアの女性は当初、町の人々の、おそらくはさまざまな彼女の身の上に関する偏見があった中で、誰もひとがいない正午にそっと水をくみに来ていたのですが、イエスはそんな彼女に水を飲ませてほしいと頼み事から話をはじめ、すべてを見抜いていた上で少しも偏見無くこの女性と対峙し、彼女に福音を伝えたのでした。イエスの「イエス」イエスの根源的な存在の肯定に触れた彼女はそのことに大変感動し、水をくみにきたはずの彼女が水瓶をおいたまま出て行くほど心動かされ、堂々とイエスのことを伝えるものへと変えられていっています。
本日の聖書でもイエスはひとりの女性と平等にひととして対峙しています。つまはじきにされるどころか、このたびは殺されそうになっていたひとのそばにたち、イエスはそのまま言います。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」と。
「行きなさい。」この言葉はポレウオマイというギリシア語の命令形です。辞書で見ると、旅する、歩む、人生を生きる、そして天国へ行く、つまり死ぬという意味もありました。実際、ヨハネ福音書の中では、イエスが神の住まいである天に「行く」という意味で、何回も使われています。ここには、天の方向に、神の方向に行きなさい、神の方向に旅を始めなさい、歩みだしなさい、というあたたかなメッセージがあると思います。人は大いなるものに肯定されているという安心感があってはじめて変えられて歩みだすことができるのだと思います。
ここで説かれているのは、何が罪で何が罪でないかという問題ではなく、犯罪をゆるす・ゆるさないというような問題ではなく、全く別次元と言っても良い、もっと大きな存在のゆるしの話、イエスの「イエス」絶対的な人間存在に対する大きな肯定の話です。幼い子にも大人にも自己肯定感が低いと言われるこの国の人にもこの「肯定」が常に必要かと思います。「いつくしみ深い」の歌詞の中に「世の友われらを捨て去るときも祈りに応えてなぐさめられる」というものがありますが、イエスはそのように、さまざまな理不尽な理由や偏見のなかでつまはじきにされている人々に近づき彼らが神に愛されている、と神の肯定、神のイエスを伝え、救いました。生きていくなかでは生き生きとした生命をそがれるようなさまざまな状況下におかれますが、われわれもイエスの絶対的な存在の肯定、いつくしみ限りない存在の肯定感を得て、新しく歩みだしていくことができればと思います。
祈ります。
すべてのいのちあるものの造り主であられる主なる神よ、心を合わせて礼拝するひとときを与えてくださいまして感謝いたします。
本日は四谷新生教会のみなさんと共に礼拝をささげられます恵みを感謝いたします。
あなたは聖書を通してたえず私たちに語りかけてくださいます。神はイエスを通してあなたの大きな愛といつくしみを示してくださいました。その愛といつくしみに触れ、ここからまた世に遣わされるわれわれが、イエスの根源的な存在の肯定、神の絶対的な存在の肯定感を日常の場でも可能な限り想起し、新しく歩みだしていくことができますように。そして絶えず神の方向に新しく心を向けなおし、あなたによって新たに変えられ、真に解放されていくものであれますように。
戦後75年、8月は平和について特に思いをはせる時です。貧困・飢餓・差別・暴力・戦争のない世界に向けてわれわれが平和を作り出すものとして歩み出せますように、それぞれを守り導いてください。あなたによる真の平和・平安・自由・解放に向けて祈りと行動を合わせていくことができますように。
本日さまざまな事情でこの場に集えない友の上にも私たちと変わらぬあなたのお恵みがありますように。特に病のうちにある方、体を痛めている方、心身の不調にある方にあなたの深い慰めと癒し、励まし、希望がありますように。また、コロナウィルスにより、あるいはその影響の中での不況や不調和の中で不安をおぼえていらっしゃる方に、またこの状況下の中で医療現場交通現場教育現場など最前線で働かれている方々に、また、この状況の中で親しい方が召された方々にあなたが近くのぞまれ、励ましや必要な助けを与えてくださいますように。
この祈りを、救い主イエス・キリストの御名を通して、御前におささげ致します。アーメン。