2020年8月2日
四谷新生教会礼拝説教
「私から始める平和」
ローマの信徒への手紙14・10-23
今日は、日本基督教団の行事暦においては「平和聖日」です。この時期に、平和を主題とする日曜日の礼拝をもって、また歴史から学ぶ機会をもって、主イエスの「平和を実現する人々は、幸いである」という御言葉を思い起こし、平和への志を新たにする。これは、アジア太平洋戦争が終わってから75年たつ今も、なお変わらずに大切なことだと思います。
ローマの信徒への手紙の14章で、パウロは、遠くにあるローマの教会で起きていた「何を食べてよいか」をめぐる争いに対して、語りかけます。なぜ彼は、面倒な人間関係のもつれにわざわざ首をつっこむのでしょう。そこに教会の本質がかかった課題があるからです。
教会はいつの時代も、<もめごと>を経験します。それは避けがたいことです。異なる価値観を持つ家庭環境で育てられ、異なる性格や流儀を持ち、異なる経済的社会的境遇に暮らしている者たちが、キリストにつながれたという一点で結びあわされて共に生きるのです。真剣に「家族」として一緒に生きようとするならば、もめるのが当然でしょう。私の恩師がよく言っていたのは、「問題があることが問題なのではない。問題をどう解決するかが問題なのだ」。本当にそうですね。もめごとがあるのが問題なのではなく、もめごとにどう取り組み、どう乗り越えていくかが教会にとっての重大問題なのです。乗り越えていく中で、教会が本当にキリストのからだなる教会となっていくからです。
信仰の強い者(ここでは、「すべてのものはきよい」と感謝して、何でも自由に食べられる人のこと)が、弱い者(ここでは、律法でけがれているとされた物を食べると気がとがめてしまう人のこと)を見て、福音信仰の立場から、「そんな過去からの縛りにいつまでとらわれているのか」と裁くのは簡単です。パウロが常日頃教えていることから見ても、その主張はまったく正しいのです。キリスト者はもはや立法の枷のもとにはいません。
しかし、その信仰の強者が「正しいこと」を振り回すことで、つまずき倒れてしまう弱者がいるならどうでしょう。神の国(=神の支配)はどこにあるのか、と問わねばなりません。神の国は、あなたが「私の自由!」を振り回して、好きなように食べ、好きなように飲むことにあるのか。そうではないでしょう。あなたは自由であるけれど、しかしそれを用いて好き勝手なことをするのではなく、自由において姉妹兄弟のことを思って何かを断念するとしたら、そこにこそ神様の求める「義」があるのです。そこに、互いを尊重する平和が生まれ、共に生きる喜びが生じるのです。それが神の国です。
価値判断の「はかり」ということを考えます。私たちは何か行動を起こしたり、言葉を口にする時、価値判断をしています。何も考えないで何かしたり、ことばを吐いたりするという幼児的な振る舞いをしてしまいますが、その場合は、無意識・無自覚的に自分の判断に従っているといえましょう。それは大変軽率なことです。
わたしたちが語るとき、行うときに、「考える」ということを大切にしようではありませんか。今この状況で、あの課題やあの弱さを抱えながらいるであろう人に、何を語り、何を行うことがよいことなのか、よく「考える」のです。脊髄反射の機関銃のようにして言葉や行動を吐き出すのと対極の行為です。パウロは、そうやって考えるときの「はかり」となることを教えてくれています。そして、それは、新型コロナウィルスの感染拡大の中、人間の心がささくれ立ち、小さなことでも激しく苛立つようになってしまっている今のような状況の中で、いよいよ重要になっていることです。わたしたちにとっては、今まで経験したことのようないような異常を経験しているのですから、判断に違いがあって当然のことです。たとえば、礼拝をいつ再開するのかということ一つとっても、教派によって大きく対応が異なり、各個教会でも異なり、そして個々人がどうするかの判断も相当に違ってきます。なのに、「あの教派・教会・人はなんて臆病なのだとか、なんて乱暴なのか」と腹を立て、強く非難したくなる。そのような状況をわたしたちは今経験しています。このような時こそ、パウロの教えに耳を傾けるべきです。
「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」。
ここで出てくる「向上」は、ギリシア語では「オイコドメー」という言葉で、「建物」とか「建て上げること」という意味です。聖書協会共同訳ではここを「平和に役立つことや、互いを築き上げるに役立つことを追い求めようではありませんか」と訳しています。「何を食べてよいか」問題において、教会のみんなが考えなくてはいけないのは、自分たちのことばや態度が、平和につながるか。共同体という家を築くのにつながるか、ということなのです。
「いや私はこう言いたい。言う権利を持っている。私が言って何が悪い」と思う人もいるでしょう。確かに自由なのです。その自由は守られなければなりません。しかし、そこで「考える」ことはとても重要です。私はこれを、自分の感情を満足させるために言っているのではないか。これは平和をもたらすことだろうか、平和という建物を作り上げることだろうか。
考える「間をもつ」というのは大切なことではないでしょうか。「間をもつ」とは、自分の思い込みで動くのでなく、神からの導きが働く余地をつくるということです。「間」というのは、自分を様々な拘束から解き放って、神様との交わりの空間・時間に置く、ということです。それは祈りだと言ってもよい。「神様、どうかここに働いて、このことが平和へとつながりますように。互いを作り上げることに役立ちますように。私が平和と向上を、自分のはかりとできますように」。そういう祈りです。
今もまさにそうなのですが、歴史を振り返ると、人々が不安に襲われるような状況や、悪い時代の空気の中では、挑発的な物言いをする政治家や指導者がもてはやされるようになるという傾向があります。排斥的で攻撃的な挑発をする政治家が喝さいを浴びるのです。なぜそれが世間の支持を得るかというと、やはり私たち人間に、「自分の正しさをふるって、異なるものを排除したい」という衝動があるからでしょう。「面倒なことはごめんだ。馬鹿な奴らは切り捨てろ。ぐだぐだ言う奴は社会の迷惑だ。」そういう力が私たちをつき動かすのです。
しかしイエス様は、人間一人ひとりを見て、その弱さや問題を知り、その上で十字架についてご自分の命を与えてくださったのです。わたしたちはその愛によって、異なる人と共に生きるのです。イエス様は言われます。「平和を実現する人々は幸いです」。そう生きられるようイエス様が大元の愛を与えてくださったのです。平和は誰かがどこかで作ってくれるのを待つものではありませんん。まず私から平和を始めるのです。
祈りましょう。
神さま、私たちは今日、「平和を実現する人々は幸い」というイエス様のことばに励まされ、平和をこころざし、平和を祈り求める礼拝をささげています。8月6日、9日、15日と、わたしたちが心に刻むべき日が続きます。過去に起こったことを真摯にみつめ、悔い改め、今と未来に生かす者としてください。また、「戦後」が来ることなく、今も軍事基地の重荷にあえぎ続けている地があり、苦しみ続けている人々がいることを忘れることはできません。今、必要なことができる者としてください。
神さま、今日はパウロがローマの人たちに語った言葉が、わたしたちに示されました。新型ウイルス感染拡大の中、国と国、集団と集団、人と人との緊張が高まっています。苛立ちがあります。裁きあいがあります。わたしたちもその渦中にいます。どうか、わたしたちがことばや行動の前に「考える」ことができますように。平和に役立つことを、築き上げるのに役立つことを追い求められますように。実行できますように。神様からのシャロームを、わたしたちのうちの深いところに与えてください。
主イエスの御名によって、アーメン。