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四谷新生教会2020.7.26ヨハネによる福音書6:16-21
「現実に向き合う」 森田裕明 牧師
競泳選手の池江璃花子さんは、昨年2019年2月に白血病と診断されたことを自分のTwitterで公表し、10ヵ月間の入院、療養を経て、2019年12月に退院をしました。当時18歳でした。池江さんは2018年にインドネシアのジャカルタで開催された「アジア競技大会」では、50m、100m自由形、50m、100mバタフライ、400mフリーリレー、400mメドレーリレーの6種目で優勝し、日本人初となるアジア競技大会6冠を達成し、大会MVPにも輝きました。急成長し、目覚ましい活躍をしていたので、日本中が今年開催予定だった東京オリンピックでの活躍に期待をしていました。そのような中での池江さんの病気の告白でしたので、国内ばかりか世界に衝撃が走りました。
その告白に、あるテレビ局の報道番組のキャスターが、「本人の努力もあるんでしょうけど、天が二物を与えたというくらいのすごい天才ぶりだし」と前置きしつつ、「神様がちょっと試練を与えたのかなと思います」と発言しました。この発言にネット上で非難が殺到しました。その後、池江さんはTwitterに、「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」と書き込んだと、報道されました。私はこの報道を耳にして、思わず「これって、聖書の言葉だ」と声が出ました。新約聖書コリントの信徒への手紙一10:13です。新共同訳聖書には、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と書かれています。この聖書の言葉、神様のみ言葉に、私も皆さんも、主イエスを信じる信仰において、はっきりと「その通り、アーメン」と言えると思います。
「試練」という言葉は、一般的には「逆境」や「苦難」という意味で理解されますが、信仰的には偶像礼拝や淫らなこと、神を試みること、不平を言うこと(コリントの手紙一10:8〜10)との戦いを「試練」と言っています。いずれにせよ、池江さんがクリスチャンかどうかは分かりませんが、療養中「死にたいと思った」時期もあったと、退院後に告白した池江さんが、聖書の言葉によって辛い治療に耐え、今年6月から本格的に復帰できたという報道、良い知らせを喜び、主イエスに感謝をします。
さて、今日の聖書個所の直前の話は、主イエスが山の上で、五つの大麦パンと二匹の魚という僅かなもので、5千人もの人を満腹にさせたという話でした。人の目には足りない、役に立たないと見えてしまうものでも、主イエスによって、十分に足りるばかりか、あり余るほどの神の恵みとなることが示されました。この話から私達は、この世では十字架で処刑され、何の力もないように思われた主イエスこそが、人を豊かに生かし続ける神の恵みであり、その恵みは満ち溢れるということを知らされます。
主イエスの話が終わると、思い違いをしていた人々が、主イエスをこの世の王にしようと連れて行こうとしたので、主イエスは人々を避けるため山に退かれました。一方、弟子達は夕暮れ時になったので、山を下りてガリラヤ湖畔に行き、遅れて来るはずの主イエスを待っていました。しかし、暗くなっても主イエスが来ないので、弟子達だけで舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムへ向かいました。暗い中に小さな舟を出すことは危険ですし、ガリラヤ湖の天候は変わりやすいことでも知られていて、漁師でさえ恐れていた湖です。実際主イエスの弟子の中には、ペトロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネ等漁師がおりました。彼らはガリラヤ湖を知り尽くしていたプロで、漁をする上で何が危険かの知識や経験も持っていたはずです。その弟子達が危険を冒してまで、向こう岸のカファルナウムを目指したのはどうしてだったのでしょうか。
マタイによる福音書14章やマルコによる福音書6章にもこれと同じが話がありますが、そこでは弟子達は主イエスに命じられ、舟に乗り目的地へ向かいます。その時の弟子達の本音は、「先生(主イエス)の指示、命令ですが、危険なので明日の朝になってから行かせて下さい」ではなかったでしょうか。しかし、弟子達は主イエスの指示、命令に従いました。それに対して今日の聖書個所では、弟子達は自主的に舟に乗り目的地へ向かいました。主イエスの弟子として、たとえ危険があっても、主イエスの働きを「今」やらなければならないという、使命感からだったと思います。
弟子達は暗闇の中、舟を沖に漕ぎ出しましたが、岸から5キロぐらい進んだところで、そこは目的地まで半分くらいのところでしたが、強い風と高い波に襲われてしまったのです。先程も話しましたが、弟子達の中にはガリラヤ湖の漁師がいました。この湖の天候は変わりやすく危険であることや荒れた天候での舟の操作など、長年の経験や様々な知識を持っていました。しかし、湖のことも漁のことも知り尽くしていた弟子達でも、どうすることもできない危機的状態に陥ってしまったのです。この危機的状態がいつまで続いたかは聖書に書かれていませんが、マタイやマルコの福音書によれば、翌日の明け方まで続いていたことが分かります。弟子達にとって明け方までの時間は、とてつもなく長く感じたでしょうし、死の恐怖にもさらされていたことでしょう。
今からもう35年前ですが、1985年8月12日の夕刻(18時56分)に、羽田発大阪行の日本航空のジャンボジェット機が、群馬県の御巣鷹山に墜落しました。乗員乗客524名中520名の方が亡くなり、奇跡的に4名の生存者がいました。飛行機は離陸から12分後に、後部の圧力隔壁が破損し、垂直尾翼と補助動力装置も破損し、油圧操縦システムが全部ダメになった結果、機体は大きく左右に揺れ、八の字を描くように蛇行するダッチロール状態となり、横揺れと横すべりを32分間繰り返しながら迷走飛行を続け墜落しました。この32分間、乗員乗客は死の恐怖に襲われたのです。この事故以後に、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)という病気が知られるようになりました。この病気は、人が命の安全を脅かされるような出来事、戦争や災害、事故、犯罪、虐待等によって、強い恐怖を感じ、それが記憶に残ってトラウマとなり、その時の体験が何度も思い出され、あたかもその時に戻ったような恐怖を感じ続けるというものです。
私が日航ジャンボ機の墜落事故を忘れずにしっかり覚えているのには理由があります。それは、当時私は27歳になったばかりで、目白にある日本聖書神学校の2年生でした。その春に四谷新生教会に転会し、附属の幼稚園の教師として勤務し、教会学校の教師もしていました。教会学校の教え子の一人に、教会の目と鼻の先のマンションに住んでいた、浦上かえさん(名は漢字ですが失念)という中学生の子がいました。実は、浦上かえさんのお父様はハウス食品の社長でしたが、このジャンボ機に搭乗していて亡くなられました。お父様は47歳でした。このようなことがあり、私にとっては忘れられない事故の一つとなっています。
主イエスの弟子達が嵐に翻弄され、恐怖におののいた最中に、主イエスが、湖の水の上を歩いて弟子達の舟に近づいてきました。その主イエスを見て、弟子達は恐れたのです。マタイやマルコ福音書では、弟子達は主イエスを「幽霊」だと思い、叫び声をあげています。
この弟子達の主イエスを見ての恐れは、弟子達の恐れが嵐ではなく、主イエスつまり神様に変わった瞬間でもありました。本当に恐れ(畏れ)なければならないのは、人や出来事ではなく神だということです。主イエスは、自分を見て恐れた弟子達に、すぐさま「わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられました。この「わたしだ」と訳されているギリシャ語の「エゴーエイミー」は、元の意味が「わたしはある。わたしはあるという者だ。」です。旧約聖書では、見えない神が現れる時に用いられる言葉です。主イエスは「わたしだ」という言葉を使って、弟子達に自分が神の子、神なる存在であることを明らかにされたといえます。弟子達は自分達が乗っている舟が、まさに「今」沈没し、助からないかもしれないと、死の影がよぎった緊迫した現実の中で、主イエスが神の子、救い主、神であることに気付かされたのです。
主イエスが現れた後、マタイとマルコによる福音書では、風は静まり嵐はおさまりましたが、今日のヨハネによる福音書の個所では、そのことについては何も書いていませんので、嵐は続いていたと考えられます。そのような中で主イエスが舟に乗り込むと、間もなくして目指す目的地であるカファルナウムに着いたと書いてあります。
旧約聖書のイザヤ書43章1-2節に「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。」とありますが、今日の聖書個所での主イエスの姿、存在と言えます。
今日の聖書個所での「弟子達」は「キリスト者」、「舟」は教会、「湖」はこの世です。この聖書が書かれた時代に、教会、そしてキリスト者は、主イエスの教えがなかなか受け入れられず、度々激しい迫害を受けるなど、厳しい現実に向き合って、不安や弱さの中で細々と信仰を守り続けていましたが、その厳しい現実に向き合って祈り、伝道に励む人々と、主イエスはいつも共にいて、守り、支え、励まし、慰め、生かして下さっていると、今日の聖書個所は教えてくれているのです。
そのことは、「今」の時代に伝道に励んでいる四谷新生教会などの教会や私達キリスト者一人ひとりにも語られているのです。現代の教会もキリスト者一人ひとりも、この世、社会にあって様々な問題を抱えて右往左往し、翻弄される中で、不安や怖れを抱き、主イエスを見失うなど不信仰に陥ってしまうことがあります。そのような時に、主イエスは「わたしだ。恐れることはない。」と、優しくも力強く、救いの声をかけて下さるのです。そこで、私達が忘れてならないのは、最も畏れなくてはいけない方は、神であり主イエスであるということです。主イエスを畏れ、「あなたこそ、神の子」と力強く告白しつつ歩み続けることこそが、主イエスが与えて下さっている奇跡の力なのです。
最後に、この世の苦難の中で、主イエスによって主イエスに気付かされ、主イエスを見出して、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」という神の言葉に、「アーメン、その通りです」と応えて歩んでいきましょう。
(祈祷)
主なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。
今日の主日礼拝も、四谷新生教会の礼拝堂または各家庭で守られましたことを喜び感謝をいたします。
新型コロナウイルス感染が再び拡大に向かっていますが、感染者の数にいたずらに怖れを抱くのではなく、一人ひとりがウイルスの正しい情報や予防方法を知り、予防に取り組むなど新しい生活様式を送ることができますよう養い、導いて下さい。
四谷新生教会の教会員や関係者、付属四谷新生幼稚園の園児やその家族、教職員一人ひとりも、この世、社会にあって、病気などの健康や生活の困窮、家庭や職場、社会での人間関係など、厳しい現実に向き合って生きなければならないことが多いですが、そのような時にこそ、あなたが「わたしだ。恐れることはない。」と、私達に声をかけて下さい。そして、私達がその声に気付けるようにして下さい。
これらのお祈りを主イエス・キリストのみ名を通しておささげいたします。アーメン。