使徒言行録4:23~37
前回、私が担当させて頂いた説教では、2000年前の最初の教会共同体が大切にしていたもの。どのような群れであったのかを分かち合いました。
弱さも痛みも含め、皆が分かち合って歩む共同体であったこと。彼らが大切にしていたのは、使徒からの学び(弟子からのイエスキリストの教え)、信徒の交わり(真の人間同士の関係)、パン割き(聖餐式・愛餐)、そして「祈る」こと。これらのことに熱心であったとあります。
多くの人々が、イエスをキリストであると受け入れていった。しかし、そのことを快く思わない人々がいた。それは、イエスを十字架にかけることを強く望んだ人々。イエスのことを嫌っていた人々にとって、そのような人々にとってはイエスこそ救い主キリストである、という人々が増えることは許せなかった。
そこで、弟子たち(リーダー:ペトロとヨハネ)を捕らえ、脅した。「もう二度と、イエスが救い主などと、人々に教えてはならない」と。そして釈放したのでした。
本日の聖書箇所は、その釈放後、解放後の場面です。彼らが捕まった罪は「死者の復活」を説いたこと。釈放時の命令は、「決してイエスの名によって話したり教えたりしないこと」だった。
ペトロとヨハネは「もう二度と、イエスが救い主などと、人々に教えてはならない」との命令の後に釈放されます。解放後、ペトロとヨハネは、また、その仲間たちは何をしたのか?
「祈った」とあります。
ここには、教会が、私たちキリスト者が、困難な状況の時の、またそうでない時も、あるべき姿がある。それは、「祈ること」。どのような時も、祈ること。共に祈ること。祈りこそが、我々の命の営みであると。
「祈りは呼吸のようなものである」…「キリスト者としての命」の営みを守るもの。
弟子たちは、仲間たちは共に祈った。身の危険を感じ、命の危険を感じ、教会の立ち行かぬ困難さの中で、彼らは祈った。
…何を祈ったか?身の守りか?教会の守りか?迫害からの守りを祈ったのか?
29節、30節をお読みください。
「天地の創造主なる神よ、イエスキリストの名を、わたしたちが力強く語ることができますように。そして、イエスキリストの名によって、しるしとして、証しとしての癒しの業をお与えください」と祈った。
彼らは祈った。命の危険と教会の困難の中で、彼らは祈った。そしてその祈りの求めることは、神による自らの保身・教会共同体の保護ではなく、「私たち一人ひとりが、イエスキリストを力強く語ることができるように」と祈った。
「イエスこそがキリストであることの証し」を「自分たちが担ってゆくこと」を望んだのです。
弟子たちは主イエスの生前、一緒にいるときは主イエスに「証を見せてくれ」と迫りました。しかし今、弟子たちはもう知っている。主イエスの証を知っている。主イエスが十字架の死から復活されたこと。何のために死に、何のために復活されたのかを。次は自分たちの番であると。「その主の十字架と復活の証」を、それをすべての民に伝えること、その任を「自らが十分に担えるように」と祈ったのです。
それを今、我々の言葉では、「宣教・伝道」といいます。わたしたちの教会の使命である伝道。
キリスト者にとって「祈りは呼吸」だといいます。祈らない信仰は死んだ信仰だともいわれます。同じく、「伝道しない教会は、伝道を忘れた教会は、死んだ教会である。」…これは、乱暴な言葉であるようでもありますが、本日の聖書に聞いても、教会の歴史から見ても正しい。
教会の使命の一つは、大きな使命の一つは伝道。
では、「伝道」とは、それはただ、自己満足な拡大であってよいのか?私たちのための伝道であってよいのか?教会のための伝道であってよいのか?教団・教区・教会という組織の為の伝道であっていいのか?・・・当然、否です。
伝道。・・・そこには、必ず「愛」がなければなりません。開かれた愛。自己拡大の野心ではなく、主イエスキリストに示された愛。その愛がなければ伝道すらも無に等しい。むしろ、その「愛」こそが、教会の原動力でもある。教会の命ともいうもの、それが「愛」。
先ほども言いましたが、キリスト者の呼吸は「祈り」。・・・信徒たちは皆、共に祈った。困難な時も迫害の中でも、そして喜びの時も、まず祈った。
教会の使命は「伝道」。…その祈りの求めるものは、「力強く語ること」だった。
そして、その教会の命は「愛」である。
「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音書15章)…最後の晩餐の席でイエスキリストが弟子たちの足を洗い、伝えた言葉。遺言。それに忠実であろうとした。主イエスキリストに示された愛、それに忠実であろうとし、証として教会内では分かち合いを。教会の外に対しては、その愛をもって「証し(伝道)」をした。
伝道は、主イエスキリストの愛を社会に分かち合うこと。穏やかで、しかしどこまでも力強いこの愛を、社会に分かち合うこと。他者と分かち合うことだと。
キリスト教・教会が、その主イエスキリストの愛を分かち合うことを社会の中で実践し、見える形となっているのが、病院やホスピス・福祉、そして教育。キリスト教・教会が、病院やホスピスに熱心なのは、主イエスの愛をもって、痛みを分かち合うということから。教育も。地震や災害にも、教会は献金する、行動する。
・キリスト者の呼吸は「祈り」。
・教会の使命は「伝道」。
・そして、教会の命は「愛」。
あの十字架で示された、主イエスキリストの真なる愛。その「愛」とは、心も思いも一つにして分かち合うこと。教会内でも、教会の外に対しても。
教会で礼拝内でその「愛」を具現化したものが「パンを割くこと」である「聖餐式」。
「聖餐式」とは、それは、キリストの愛の象徴。命を捨ててまで私たちを愛してくださった、そこまでの愛。イエスキリストがわたしたちのために十字架で死んでくださったという、愛の証し。
やはりわたしたちは、キリストの十字架に示された神の愛に感謝し、祈りをもって心に刻み、人々と共に分かち合うことを覚え、また祈りを持って周りの方々へと、キリストの「愛」をお伝えしてゆく。
初代教会には、迫害があった、命の危険も感じた。自分の未来も見えない。教会の未来も見えなかった。
…私たちも同じです。行き詰まり、老いや病。その中にあって、何を想い、何を祈るのか?何を中心に、なお何を目指すのか?
そして教会としては何を目指すのか?…困難の中で祈る群れでありたい。伝道する群れでありたい。・・・この四谷の地にあって、「キリストの名を大胆に語ることを祈る。伝道する教会」として建てられたいと願う。主の愛に満たされ導かれた、2000年前からなんら変わらぬイキイキとした「生きた教会」として、この地に建てられたいと願うものです。
祈り:
主なる神。
わたしたちのこの四谷新生教会が、「心も思いも一つにして」、共に伝え、共に愛し、共に祈る共同体でありたい。
困難もともに祈り合い乗り越えてゆくことができますように。
集い礼拝することが適わない今ですが、だからこそ互いに祈りで繋がることが許されますように。
主の御名によって祈ります。アーメン