ヨハネの手紙Ⅰ2章22節−29節
正しいと思って信じてきたこと、自明のものだと思ってきたことの根底を問われることがあります。教会は礼拝堂で礼拝をしない、と言う選択を新型コロナ感染症の感染拡大予防の観点から選択したとき、礼拝共同体である教会が礼拝をしないとはどういうことか、という根源的な問いの前にわたしたちは立たされたはずです。日本の多くの教会がその問いに直面しました。数週間、数ヶ月、それぞれの問いの中で時間を過ごしていますが、教会は礼拝する集まり、ということの意味をその間わたしたちは問い直してきました。
信じていることの中に、信じて生きるいのちの道のりの中に、ながく自明のものだと思ってきたことが揺るがされることがあります。今日の手紙が宛てられている読者の人々もまた同様でした。この人たちが揺さぶられていたのは、教会の実践についてのことがらではなくて、その根底にある、主イエスについての問いでした。今日の聖書はこんな風に始まります。「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう」イエスはメシア、キリストではない、と言う人々が教会の中に登場していたのです。イエスをキリストと告白する人々が誕生して300年くらいは、この手の問いと教会はずっと関わっています。
人間として生まれ、ローマの犯罪人として十字架で死んだイエスは、果たして救い主キリストであり得るのか、という問いかけは古代の人々の「信仰」を揺るがせました。古代のキリスト者にとっては、人間として生まれて生きて、苦痛と汚辱にまみれて死んだイエスのような存在が、全能の神の子たりえるのか、という問いは、まっとうな疑問の様に受け止められたのです。汚れなく強く痛むはずもない、それが神の子キリストである、それなのにおまえたちの大切にするイエスは、傷んで捨てられたものではないか、と問われたとき、その問いに、考え込んでしまう人がいたのです。この問いを投げかけられ、それを聞いて、自分たちが信じてきたもの根幹を揺るがせられました。
人間であるイエスが、復活して神の子となったからこそ、人にとって救いはあります。弱さを持って生まれ、人の苦しみを知るイエスが、人の裏切りと偽りの故に命を捨てて、なおそのような大きな人間の過ちを赦すために神はイエスを死から起こした、それこそが人にとっての救いと赦しと希望であるのに。それゆえにイエスはキリストであるのに。そのようにキリストを信じる者の真理は簡単に人間の常識のまえに崩れ去ってしまうものでした。
手紙の著者はそのように問う者、イエスがキリストであることを否定する者を「反キリスト」と呼んでいます。御子を認めない、御父にも結ばれていない者、として手紙が厳しく批判しているのは、いわばイエスをキリストと信じ告白していき続けることの葛藤や矛盾に簡単でわかりやすい一つの答えを提供してくれる存在であったと言うことができるでしょう。反キリスト、キリストに敵対するとは、そのようにして一人ひとりの人間の葛藤に関して安易な解決を与えてくれる存在であるのです。手紙を受け取った古代の人びとの文脈で言えば、イエス・キリストの抱え込んでいる存在の矛盾、全き神であり、全き人であるというその矛盾を簡単に調停した者です。イエス・キリストからイエスを切り離せば、完全に神の子だけの存在、キリストになると教え、人として生きて死んだイエスの生涯を切り捨てます。それはわたしたちの歩みの過ちも罪もなかったこととし、裏切りにも偽りにも目をつぶることと同じです。信じてきたもの、大切にしてきたものの根底に存在する矛盾や課題を突きつけられたとき、それを簡単に解消してくれる答えを選ぶことは、実際には信じていることそのものを破壊してしまうのです。
しかし、そのような葛藤を簡単に解消したいという願いは常にわたしたちの前にぶら下げられているものでもあります。葛藤に置かれるのはつらいから、揺さぶられるのは怖いから、早く解決を手にしたいとわたしたちは願います。
けれども聖書は薦めています。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」わたしたちがとどまるべきは「はじめから聞いてきた」矛盾の与える葛藤の中だというのです。白黒を明確に判断する答えではなく、「初めから」ある、その矛盾の与える葛藤にとどまること。なぜならそこに、人間の常識で判断したり、人間の定義に当てはめたりできない真理があるからです。
だからこそ、その苦しい場所、葛藤の中に立ち続けるために、わたしたちに「注がれた油」(27節)があります。キリスト、油注がれた者の語源にもなった「油を注ぐ」ということばを用いて、手紙の著者は伝えます。主から霊を受けたキリストにより、わたしたちはキリスト自身から「油を注がれて」いるものです。矛盾を抱え込んでわたしたちの救い主になったイエス・キリストにより、わたしたちは油注がれ、キリストにされています。「この油が万事について教えます」葛藤の中で、信じてきたものが崩されるような問いの前で、それでもそこに答えを求め続けることを、その「油」がさせてくれるのだと、手紙の著者は教えます。
だからこそ、聖書の時代より時間がくだると、古代の教会では、この「油」を目に見えるように体験しようとしました。洗礼を受けた後、油を塗り、手を置いて祈り、それで聖霊の洗礼を受けたと考えるようになりました。なぜなら、この油は、人を迷いの中で問いに立たせ続け、神の真理に向かわせ続けます。
こうして神からの霊を個別のクリスチャンは受けていて、与えられる葛藤を乗り越えてゆけるはずであると手紙の著者は考えています。信じることの根幹が揺るがされそうなときにも、悩み、揺さぶられても、葛藤の中から真理に向かうことができる、と教えます。
この励ましは決して、古代のクリスチャンたちだけのためのものではありません。礼拝共同体がどういうものであるべきかを問われ続けている、わたしたちのためのものでもあります。この問いに悩み続けることは、わたしたちの信仰の根幹を新しく据えることになる、「確信を」持つことのできる日が必ず来ます。
祈ります。わたしたちのいのちの造り主、すべてのみなもとである主なる神さま。わたしたちは信仰を、教会を、礼拝を新たに受け取り直す問いの前に立たされ続けています。この時を通してわたしたちが新たにあなたと教会と出会い直すときが与えられますように。それぞれの道を導いてください。愛する独り子イエス・キリストの名によって祈ります。