使徒言行録2:1-42
ペンテコステのこの日、主の弟子たちとともに今ここにある私たちも聖霊の息吹に、聖霊の炎に満たされたいと願います。
本日の聖書箇所は、少々長くはありますが使徒言行録の2章のすべてを用いました。
ここでは、大きく3つの場面に分けることができます。
①弟子たちへの聖霊降臨の出来事
②ペトロの説教
③説教を聞いた群衆と、最初の教会共同体の誕生の姿
聖霊降臨の出来事は本当に不思議です。主イエスは復活の後、弟子たちと40日間過ごされた中で、弟子たちに対して「私はこののち父の所へ帰るが、あなたがたを一人にはしない。父からの聖霊を与える。」と伝え、別れのその時にも同じように語ります。
弟子たちは信じて待ちます。十字架に従うことができず、主イエスが生前言われていた復活をも信じることができなかった弟子たちは、信じて待ちます。
復活の主と過ごした40日間。人間的には完全に挫折し自己嫌悪の中から赦しと癒しの40日間。そしてまた、主イエスは目の前で天へとお帰りになった。見えなくなった。不安でしかない10日間を、主イエスからの約束を信じて待ちます。
信じて待った10日目の日、五旬祭のその日、ユダの補充として追加されたマティアも含めた12人の弟子全員が集まっていたその時、主による激しい風と炎が彼らを包みます。それは、聖霊の息吹であり、聖霊の炎による洗礼(新たな命)でした。
大きな物音に集まってきた群衆を前にして、不思議な業は続きます。12人それぞれが様々な国や地方の言葉で神を証し始めます。無学で字も読めない弟子もおり、ガリラヤなまりが強い田舎者もそのすべてが、そこにいるすべての人々に届く言葉を話して神の業を証します。
それは本当に不思議な光景であり人の業としては説明ができず、理解もできなかった。その場にいた群衆の心理を聖書は「あっけにとられ」「驚き怪しみ」「驚き、とまどっていた」と描いています。だからこそ、この出来事を受け入れられない群衆の中には「酒に酔っているだけだ」と嘲笑する者もいました。
聖霊降臨のその光景に、私たちは「人間的に驚きとまどい」ます。しかし私たち信仰者は、そのような不思議な業の後にある、信仰的驚きともいえる最も不思議な出来事にこそ目を向けてゆきたいと思います。それは、「ペトロの説教」です。
情熱家で直感派。自信家で大言を吐きしかし弱く、人間的にも信仰的にも、最も失敗の多い一番弟子のペトロ。十字架に向かう主イエスをたしなめ、十字架に従う約束をし、しかし3度裏切りまったく従うことのできなかったペトロ。
そんなペトロの人生最初の説教。主イエスを証し、人々を救いへと導く最初の説教。それがまっすぐに主イエスを捉え、すばらしい。ある意味では、以前を知る私たち信仰者の目には不思議な出来事に映るのです。
ここでのペトロの説教はまことに豊かです。分量的には短いものです。この後にあります、使徒ステファノの説教の半分程度。しかし、旧約の引用丁寧に行い、当時の人々に届く説教。
説教の内容は以下の通りです。
①イエスとは何者か?どのような方か?神の子であり、神そのもの。…キリスト論
②しかしそんな方を、あなた方が十字架につけた。私たちは何ということをしてしまったのか。
③しかし復活し、今は天で神の右におられる。
④今、あなたたちはその神の歴史的出来事の只中にいるのだ!
…それまでは弟子たちのことを朝から酒に酔っている「ならず者」たちだ、と嘲笑していましたが、この説教の後に彼らの態度は一変します。
37節「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか?」…ペトロの説教を聴き、彼らは動揺した。心動かされた。しかし、揺れただけで方向が見えない。何をすべきか分からない。そこで、「どうすればいいのか?」と問うたのです。
そして初めてペトロは言います。「悔い改めなさい」と。
説教では、一切悔い改めを語ってはいません。「このようなキリストを、我々はあなた方は殺してしまった」とだけ語る。…(36節)「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなければなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」
…このペンテコステの出来事はエルサレムでの出来事です。十字架のその地での出来事です。だから彼らは、数十日前に自分たちが殺した当事者。だからこそ、「なんということを、いったいどうすれば?」との言葉につながる。
…ペトロは言う。「悔い改めなさい」=罪ある自分に向き合いなさい。と。
昨今の私たちの教会の課題として挙げられるのが、受洗者の減少であり多くの教会共通の課題です。…その根源に、私たちの「罪意識の欠如」、「自己中心」「人間中心」の問題があるのではないかと思っています。
現代に生きる私たちも、ペトロの説教を聴いた者たちのように、「当事者として私がキリストを十字架にかけた」との想いがあれば、その罪の想いがあれば心動かされ、「どうすればいいのですか?」と聖書に聞き、悔い改めへと導かれてゆくのでしょう。やはり、信仰においては、「当事者としての罪認識」は大いに必要なのだと知らされます。
私は青年伝道に向き合う中で、罪よりキリストの豊かさで伝道をしたいと願っています。「罪」より、キリストの「愛」で伝道したいと願っていた。「罪」で人を縛り萎縮させ、また悪意を持ってすればそれによって思考を止めることも、導くこともできる。現にそのような方法を取るカルトのようなグループもある。それが嫌で、自らの罪以上に、豊かなキリストの愛で伝道をしたいと願っていた。しかし、それだけでは不完全。十字架の出来事は、「私たちの罪」と「神の愛」の出来事だから。
ヨハネ福音書3章の有名な言葉、
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
この、神から人類への愛の言葉。しかしこの言葉は、その1章にある
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
という、世の神へのキリストへの無理解、不信仰があってのことです。その我々の不信仰・罪という闇の中に、「独り子主イエス」という光をくださった。その神の愛は、闇と罪があってこそのもの。自身の罪を認識しない信仰はない。ということ。
何より、自分の信仰を省みた時、罪意識が大きく信仰を下支えしていることに気づく。私の信仰の基礎。愛を強調し、愛を先行させることもよいのかもしれませんが、やはり伝統的な我々の教会の信仰である、「罪という闇の中から、全くの闇の中に、光が与えられる。世は、我々はそれを理解し、喜び望み受け入れること」それが信仰の原点であり原動力なのでしょう。
…使徒ペトロの最初の「教え」は、「悔い改めなさい」でした。
聖書に示されている、使徒の最初の「教え」は、「悔い改めなさい」。…「あなたがたが神であり主であるあのイエスキリストを十字架にかけてしまったのだ。だから、悔い改めなさい。」と。
そしてペトロは続けます。「めいめい、イエスキリストの名によって洗礼を受け、罪の許しを得、主の聖霊を受けなさい」と。それぞれが、個々人が、その罪のゆえに悔い改め、それぞれがイエス様を受け入れ、それぞれが洗礼を受け、それぞれがその罪を許され、それぞれが豊かに聖霊を受けなさい」と。
「めいめい」…それぞれ。この、国籍や民族や血統やコミュニティーや風習ではなく、個々人が自分の罪とキリストと向き合うこと。そして豊かにされること。それがキリスト教信仰であり、教会なのだと。
その後も続きます。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
…この、神さまと「あなた」との直接的な約束は、世代や時代を超え、距離を越える。神の救いのご計画は、神からのものであり、それは時代や距離などに縛られない。全ての以前から居られ、全てを作られた神は、その救いは、それらを超えて全ての人にもたらされているのだ」と。
ペトロの人生でも解るように、キリスト教信仰においては、人間的失敗・裏切り・つまずきは、罪意識を生み、信仰(聖霊)による悔い改めを生み、悔い改めは信仰の背骨になる。
裏切りや失敗、間違いや弱さすらも、信仰のまなざしでは豊かさを生む。私たちの望まないことも、怖いことも、避けたいことも、すべて豊かさを生む。
この世的な貧しさも、死すらも、聖書的・信仰的・教会的には、豊かさを生む。新しい命へとつながっている。
「罪」すらも、恵みに変える信仰。私たちはその中を生きています。
祈り:
ご在天の主なる御神さま
ペンテコステのこの時を心から感謝いたします。主イエスがお約束くださったあなたからの聖霊を通して、初めて私たちは信仰を知り、あなたを知り、悔い改めを知ります。
今この時、改めて自らの罪を想います。どうか力強き聖霊によって悔い改めを豊かにし、砕けたる魂をもって主イエスに従うことができますようお導きをお与えください。
四谷新生教会に繋がる全ての信徒とそのご家族の上に、豊かな御守りがありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン