ヨハネによる福音書7:32-39
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、全国に出されていた緊急事態宣言が、5月21日(木)の時点で、北海道、埼玉県、千葉県、神奈川県、そして東京都を除いて解除されました。ほとんどの県で解除されたということは、感染が弱まったことでもありますので、多くの人々は第2波の感染を心配しながらも、少し安心を与えられたことと思います。しかし、四谷新生教会のみなさんをはじめ東京都民や神奈川県民である私などは、解除された府県以上に引き続き不要不急の外出を避け、三密(密接・密集・密閉)に気を付け、手洗いやうがい、マスク着用などの感染予防に心掛けなければなりません。感染の流行は私達にとって、本当は発生してほしくないものです。しかし、避けて通ることのできない現実です。このような現実の中にあっても、主イエスは私達と共にいて下さり、私達を生かして下さっています。その主イエスに私達がどのように応えていくかを、今日私達に与えられた聖書から示されたいと思います。
今日私達に与えられた聖書の個所は、ユダヤ教の三大祭りの一つであります仮庵祭での出来事です。仮庵祭とは、かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷とされていたとき、モーセによってエジプトを脱出できた後に、荒れ野で40年間、飢えや喉の渇きに苦しみながら天幕生活を送りながらも、神が約束をして下さった乳と蜜の流れる地であるカナンの地へ導かれたことを記念する祭りです。祭りは当初7日間でしたが後に8日間になりました。人々は祭りの間、木の枝や葉っぱで仮庵を作り、そこに仮住まいをしたことが祭りの名前の由来となっています。この祭りは、イスラエルの民がエジプトで奴隷とされたり、荒れ野で辛く苦しい生活を送るという現実の中にあっても、神はイスラエルの民を見捨てず、導き、支え、豊かな恵みを与えられる方であることを、忘れずに継承していく重要な祭りとなっています。またこの祭りは、カナンの地に定着してからは、収穫祭とも結びつき、農耕生活を前提にした雨乞いの祭りと一つになったと考えられています。
さて、主イエスはエルサレム神殿で行われる仮庵祭に、出身地であり活動の地であったガリラヤの地から、人目を避け隠れるようにしてやって来たようです。なぜなら、僅かなパンと魚で五千人もの人を満腹させるという神の業などを行い、群衆から「この人はメシア(キリスト・救い主)ではないだろうか」と喝采を浴び、新しい王と期待されていた主イエスでしたが、一方で当時の権力者であった祭司や律法学者、ファリサイ派の人々からは、民を惑わし煽動する危険人物と見なされ、口実があれば逮捕され、隙あれば殺害されてしまう現実があったからなのです。しかし、人目を避けてやって来た主イエスでしたが、なんと大胆にも神殿の境内で、人々に旧約聖書を通して、人々が今まで聞いたこともない正しい神の教えを教え始めたのです。主イエスの周りには、権力者達のグループの者もいましたが、主イエスに手を出せる状況にはありませんでした。いつの時代も権力者(達)というものは、民衆を怖れるところがあります。一見権力者が民衆を支配するように思われますが、民衆の支持がなければ権力者とはなり得ないのです。
今日の聖書に登場する祭司長達やファリサイ派という権力者達もまた、まだまだ人気の高い主イエスを取り巻く人々を怖れながらも、どうにかして主イエスを捕えたいがために、「下役」を手配しました。下役とは、エルサレム神殿を守り、最高法院と呼ばれるユダヤ人指導者会議が民衆を統治するのを助ける者達です。こうして下役達は主イエスのもとへ遣わされました。そこで、やって来た「ユダヤ人たち」と下役達に主イエスは、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたがたは来ることができない。」と言われたのです。ここでの「ユダヤ人たち」とは、最高法院に所属する議員で祭司職につき、ファリサイ派など指導者達に影響力を持つユダヤ教の教師、ラビのことです。
「ユダヤ人たち」は、主イエスが話した意味が分からず、「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」と、互いに言い合いました。「ユダヤ人たち」が、主イエスの話の意味を理解できなかったのは無理のないことでもありました。なぜなら、彼らは主イエスと神との関係を知らない、もしくは信じなかったからです。主イエスは父である神のもとへまもなく帰る、と言っているのです。この言葉は「神の国」にかかわる言葉です。その言葉を権力者達は「この世」のこととして考え、主イエスがイスラエルを離れて、バビロンの捕囚後から長年他の国々に住むディアスポラと呼ばれる離散のユダヤ人の所で、「ギリシア人」ここではユダヤ人以外の異邦人という意味ですが、彼らに聖書を教えるのだろうか、と権力者達は想像したのです。主イエスが「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」と言った言葉には、主イエスの十字架での死、死からの復活、昇天という出来事を通して帰るという意味が含まれていました。まさにここでの主イエスは、ご自身に迫り来る自分のこの世での最後を見据えて言葉を掛けていたのです。主イエスに残された地上での時間は短く、それ故に、権力者達を含め全イスラエルの人々に対して、主イエスが神のもとから遣わされたキリスト(メシア、救い主)として信じるか、どうかと決断を問うていたのでもあります。そして、死を覚悟してこの世での現実を歩まれる主イエスの「私を信じるか、どうか」という問い掛けは、今を生きる、生かされている私達にも、問い掛けられているものなのです。
神のもとから遣わされた主イエスを受け入れない、信じることのできない限り、人は自ら主イエスを見つけることも、主イエスのもとへ行くこともできないのです。しかし、そのような人にも、主のみ心ならば主自らが、その人が主イエスを見つけ、主イエスのもとへ来られるようにして下さるのも、主が与えてくれている現実です。
今日の聖書では、結局のところ主イエスを捕えるためにやって来た下役達でしたが、捕えることができませんでした。この世での死を覚悟し、それもその死は、自分を捕え、処刑する者達の罪さえも、贖(あがな)うための死であることを知り、そしてその死に打ち勝ち復活をすると自覚されていた主イエスには、当然ながら何も怖れるものはありませんでした。さらには、権力者達が求める名誉や利権などの私欲の前に、主イエスの正義が打ち負かされることもなかったのです。
このように仮庵祭でも、主イエスと権力者達とのせめぎあいがありましたが、祭りが盛大に祝われる最後の日を迎えました。仮庵祭をつかさどるのは祭司でしたが、祭司は毎日神殿の丘を下りてシロアムの池に行き、そこに湧き出る水、その水は清く聖なる水とされていましたが、その水を黄金の桶に汲み神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぎました。また、祭りの参拝者達も池まで同行し、神殿に戻りました。 主イエスはシロアムの池で立ち上がり大声で、「渇いている人はだれでも、わたしのもとへ来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れでるようになる。」と言われました。大勢の人々が集まっている中での主イエスの大胆な行動にも、この世での時間が僅かしかないという主イエスの切羽詰まった状況が伝わってきます。そして、「渇いている人はだれでも、わたしのもとへ来て飲みなさい。」は、なかなか主イエスの教えを理解してくれない人々への主イエスの招きの言葉とも言えます。
「渇いている人」という言葉は、イスラエルの民が指導者モーセによってエジプトから逃れて、荒れ野での旅をしていたときの出来事と関係しています。その出来事は、喉が渇き死んでしまうのではないかと不安を抱き、神を信頼できず、モーセを呪い、人生を諦めかけた民に、モーセが杖をもって打ったホレブの岩の間から水がほとばしり出て、イスラエルの民は渇きを癒されたという出来事です。そして、この出来事は民が苦難の旅を続けているときにも、主である神は共におられたことを示す出来事でもありました。今日の聖書の前にある6章で、主イエスはご自身を、「命のパン」であると宣言されていますが、今日の個所では、ご自身が「生きた(命の)水」であると示されたのです。主イエスが「生きた(命の)水」を与える方であると同時に、主イエスを信じる者も主イエスと一つとなることで、自らの内から命の水を流れさせるようになると言われているのです。
ここで主イエスは、「生きた(命の)水」は、主イエスを信じる人々がこれから与えられる「霊、聖霊」であるとも言われています。旧約聖書の時代においても、水は霊の象徴と見なされ、ヘブライ語の霊を意味する言葉の元の意味は「喉」で、体の中の「渇く」ところを示していました。ヨハネによる福音書の3章34節で、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が、“霊”を限りなくお与えになるからである。」と言われていますが、これは主イエスを信じることで信じる者も、この霊を受け、この霊によって命が与えられることになるという意味です。
今日の聖書の最後で、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」と言われていますが、ヨハネによる福音書では、主イエスが「栄光を受ける」のは、十字架につけられるときと、死からよみがえられるときの両方の出来事において、完全な栄光を受けるものと捉えています。このことから、十字架につけられ、復活し、昇天された主イエスこそが、「生きた(命の)水」と「霊、聖霊」を主の体である教会に、そして主イエスを信じる人々に与えて下さると告げられるのです。
主イエスは「生きた(命の)水」であり、「新しい霊(魂、命)」です。そして、その「生きた(命の)水」と「新しい霊(魂、命)」は、すでに主イエスを信じる私達にも与えられ、私達の内に確かにあります。私達は遠い昔のイスラエルの民が40年間飢えと渇きを覚え、不安と怖れの中で神を信じることができなくなったように、日々の生活の中で、主イエスが与えて下さっている、「生きた(命の)水」や「霊、聖霊」の恵みや力を忘れてしまいがちですが、今日の聖書を通して、主の恵みや力が自分の内に「ある」ことを想起したいと思います。そして、それぞれの現実の生活の中で、「生きた(命の)水」と「霊、聖霊」によって、主にどう応えていくかを、祈り求め続けたいと思います。
第2次世界大戦中にアウシュビッツ強制収容所に入れられ、奇跡的に生還した精神科医で作家のヴィクトール・フランクルは、その体験を著書『夜と霧』に書きました。収容所の中でフランクルは、「過酷な労働と死の恐怖の下で生きる生活にどんな意味があるのか」「どうして私はこんなに苦しまなければならないのか」と問い続けました。しかし、何の答えも得られなかったのです。そのような中で、ある日フランクルは神に向かって、「私の人生にどんな意味があるのかと求めるのではなく、自分に与えられた人生をどう生きることが、意味のある生き方であるのかと、実は自分が神から問われているのであり、そのことに自分の生活を通して応えていくことが大切なのだ」と気付かされたのです。まさにフランクルは、「生きた水(命)」であり、「霊、聖霊」を与えて下さる主イエスを信じ、その「生きた(命の)水」と「霊、聖霊」を与えられ、生かされる中で、現実の生活を通して、主に応えた一人の人であったと思います。
祈祷
聖なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。
本日の主日礼拝も、あなたが備えて下さり、四谷新生教会の礼拝堂をはじめ教会員の方々の自宅などで守ることができました。心より感謝をいたします。
日本をはじめ世界中で、まだまだ新型コロナウイルス感染が収束に至っておりません。感染はブラジルやアフリカ大陸で大きくなっています。医療が十分でなく財政的にも弱い国々をあなたが特に支え、お守り下さい。そして医療や財政に多少なりとも余裕がある国が、より一層援助に取り組んでいけますよう導いて下さい。
あなたの体の一つである四谷新生教会が、主から与えられている「生きた(命の)水」と「霊、聖霊」によって、日々の生活に疲れと負担を大きくしている人々に、祈りと奉仕を通して、あなたの「生きた(命の)水」と「霊、聖霊」を、豊かに与えることができますよう信仰を養って下さい。
これらのお祈りを、主イエス・キリストのみ名を通して、おささげいたします。アーメン。