四谷新生教会

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2020
04Apr

「後からわかること」荒瀬牧彦牧師

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2020年4月5日 しゅろの主日

四谷新生教会の皆さま、これからしばらくの間、月の第一主日に礼拝説教をさせて頂くことになりました荒瀬牧彦と申します。一昨年の8月に一度、説教をさせて頂きましたので、憶えてくださっている方もおられるかもしれません。

当然ながら、礼拝の場において、「どうぞよろしくお願いします」とご挨拶するつもりでしたが、想像もしなかったような状況となり、書面でのご挨拶となりました。皆さんにとっては、敬愛する牧者との別離と、礼拝堂に集いえないという事態は、二重の衝撃であり、大きな試練に直面しておられると思います。

しかし、使徒パウロが、顔と顔を合わせて語らいつつ訪ねられなかった遠くの教会の人々と、手紙によって、祈りによって、聖霊の力を受けてキリストにある深い交わりを得たように、わたしたちは今、週報や説教原稿、そして同時刻の祈りを通して、<物理的に離れているが、霊的に一つに結ばれて共に礼拝している>という恵みを経験したいと思います。

 

今日は復活日の一週間前、受難週の始まりをなす<しゅろの主日>です。

しゅろ(なつめやし)は、すっと空に伸びる端正な姿から、優雅さと繁栄の象徴とされ、ソロモンの神殿にもデザインとして用いられました。勝利の表象として用いられていたようです。人々がなつめやしの枝を手にもって歓声をあげてイエス様を迎えたというのは、王の勝利への待望があったからでしょう。

「ホサナ」というのはヘブライ語で「ああ、救いたまえ」というような意味で、もともとは祈願の表現でしたが、段々とその意味が薄れて「万歳」とか「弥栄」といった歓呼の呼び声となっていたようです。

実はイエス様がエルサレムに入城される約200年前、紀元前160年代に、ユダヤの人たちがしゅろの葉をかざして、神様を賛美するという出来事がありました。

シリアの王アンティオコス4世エピファネスという、自らを神だと名乗る暴君のもと、エルサレムを占領され、神殿を汚されて、そこに他の神々の像を建てられ蹂躙されるという辛い時代のことです。ユダヤ人は苦しみましたが、マカバイ家の人たちを指導者とする抵抗運動によってシリアの支配を打ち破り、エルサレムを、そして自分たちの信仰の自由を取り戻します。その時、「彼らはテュルソス、実をつけた枝、さらにはしゅろの葉をかざし、御座の清めにまで導いてくださった御方に賛美の歌をささげた」(マカバイ記二10・7)のです。しゅろはユダヤの勝利と独立の誇らしさをあらわす象徴でした。(ちなみに、旧約続編に含まれているマカバイ記を読むと、その戦いの凄惨さがよくわかります。)

そういう歴史があるので、人々の抱いていた期待は想像がつきます。あの時はシリアの支配でしたが、今はローマ帝国の支配のもとで屈辱を味わっているのです。それを覆して、あのダビデ王国の時のような強い国になりたいという思いは強かったでしょう。

 

ところがイエス様は、小さいろばに乗って登場しました。ちょっと変だな、と思ったことでしょう。王というのは軍事力の象徴である立派な馬に乗って現れるのではないか?しかし、まあ、そんなことはいい。ともかく、この人に帝国の支配を打ち破るという力を期待しようではないか。なにせラザロを生き返らせるというしるしを見せてくれたのだから!

 

群衆の期待というのは無責任なものです。この5日後には、同じ群衆が、「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫んでいたのです。なぜか。この人は自分たちが期待できるメシアではない、と思ったのでしょう。祭司たちや下役たちの扇動にのせられて、群衆の心理が揺れ動いたのです。私たちは今、コロナウイルス感染拡大の中、大衆の行動の不安定さというものを目の当たりにしているので、実感としてよくわかることですが、「主体性ある一人の人間」でなく「群衆」となってしまった人間は本当に無責任で弱いものなのです。

 

この場面に登場する人たちは、全員、イエス様のことがわかっていませんでした。あるいは、勝手に誤解をしていました。

ラザロのよみがえりに興奮し、ローマ帝国打倒を率いる革命指導者を期待していた群衆。

「イエス人気には手がつけられない」と憤り、イエス殺害計画を進めていくファリサイ派。

主イエスについては来たものの、その言葉と行動の意味がさっぱりわからないでいた弟子たち。

イエス様ほど<わかってもらえない!>方はおられなかったのではないか、と思うほどです。

 

16節に「弟子たちは最初これらのことがわからなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」とあります。

旧約のゼカリヤ書の預言をあとになって思いだして、それが主イエスのされたことと結びつき、「ああそうだったのか!」となったのです。弟子たちはいつもそうです。あとからわかるのです。あとからしかわからないのです。

 

弟子たちはどのようにして気が付いたのでしょう。推測するに、自分たちの与えられた恵みから遡っていくことで、わかったのではないでしょうか。

恐れ、おびえ、部屋に鍵をかけて閉じこもっていった自分たち。そこに主イエスがこられて、「平和があるように」と宣言してくださった。主の与えてくださるシャロームが、心も体も魂も支配し、喜びに溢れた。まことに主は死に打ち勝ち、復活された!

彼らはそこから過去を振り返ります。主は十字架にかかった。あれは、主の力が及ばず、悪しき指導者たちにやられたのではなかったのだ。主は、私たちを罪と死の縄目から解き放つために、自ら十字架に上られたのだ!

ということは、子ろばにまたがってエルサレムに入っていかれたあの時、主は、既にその先に待ち受けていることをわかっておられて、敢えてあのように入城されたのだ!

 

<後からわかってくる>というのは、間違ったことではありません。鈍いわたしたちは、そのようにしか神の深い知恵を知ることはできないのです。後からわかる、後からしかわからない、というのは問題ではありません。大事なのは、どれだけ深くわかるようになるか、ということです。

ヨハネによる福音書はまさにそれをしています。イエスとはどういう御方か、イエスのもたらす救いとはどのようなものか、それを深く深く掘り進めていくのです。

 

弟子たちが<あとからわかるようになった>エルサレム入城の意味はどのようなものだったでしょう。

子ろばに乗って都に入って来られたその姿は、<平和>を与えるために世に来られたという主イエスの決意を示すものでした。そして、誤解と敵意の渦巻く都の中に進んで行かれたその姿は、地に落ちる一粒の麦となって<自らを与える>という、神の自己供与の愛をはっきりと地上に示すものでした。

 

新型コロナウイルス感染拡大という世界的な大暴風雨の中、わたしたちは今、一緒に集まることも許されず、手を握り合ったり抱擁したりすることも自由にできなくなり、孤立の辛さを味わっています。現金収入が途絶え、生活に困窮する人たちも増えてくるでしょう。心に余裕がなくなり、裁き合ったり責め合ったりということも起きてきてしまいます。目に見えないウイルスとの戦いは本当に困難なものです。どうしてこんなことになるのか、わたしたちにはまだわかりません。しかし、いつか必ずわかる時がくるでしょう。

 

こういう時だからこそ、自分を排斥しようとする都の中へと、ろばにまたがって入って行かれた主イエスの姿を、わたしたちの大事なイメージとしましょう。

そして、わたしたち自身も、困難の中にあって<平和を作り出す者>となり、イエス様についていきましょう。<自らを与える>志をもって、生きていきましょう。わたしたちのできることは小さな事ですが、その小さな事を主イエスが用いてくださるのですから。

 

 

<祈り>

神さま、わたしたちが今わからないことも、あとからわかるようになることを信じます。この困難の中で、わたしたちが学ぶべきことをどうぞ教えてください。

わからない者たちの混乱の中に、主が入ってきてくださることを感謝します。その主に、したがっていかせてください。主の御名によって。アーメン。

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