福音書の記者マタイは、山上の説教を神の御声で終わらせず、28節と29節でそれを聞いた群衆の様子を描きました。この箇所を読むと主イエスの説教の内容の濃さや与えた影響の大きさを知るだけでなく、人々の注意が主イエスに向いたことを知ります。
主イエスはナザレの大工の子で、庶民の一員です。その彼が突然ガリラヤに現れ、今まで聞いたことの無い「権威ある者として」の語り口で律法を教え始めたので、人々はとても驚きました。
当時の律法学者の特徴は、知識はふんだんに持っているけれど自分の思想は持って無いと言うことです。彼らは律法について様々に解説しますが、自分自身の考えや判断を明言することはありませんでした。そこで律法学者たちの議論は、高名な学者たちの意見を次々引用して信頼度の高い解釈を提示し、知識を競うというものでした。
ところが主イエス御一人は、何の権威にも頼らず「私はあなた方に言う」と言って話されたのです。疑いや不安を差し入れる余地のない確信と権威に満ちた主イエスの語り口と表現方法だけとっても、彼の教えは独創的だったのです。
中でも、人々を最も驚かせたのは主イエスが語られた教えの内容です。例えば主イエスはファリサイ派や律法学者たちの律法解釈を批判し、訂正して言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は……と命じられている。しかし、わたしは言っておく」。
主イエスが生活された時代の人々は、モーセを通して与えられた律法の霊的な意図を理解できず、外に現れること・見えることだけで全てを判断し、律法の価値を自分たちで引き下げていたのです。主イエスはそうした人々に、モーセを通して与えられた律法の正しい解釈を差し出しました。社会に蔓延している誤解に立ち向かう主イエスの覚悟の厳しさを思わされます。
また主イエスは弟子たちに「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである(5:11)」と言われました。何故なら主イエスは今、主イエスの教えを信じる者は主イエスのために死ななければならなくなるような内容を語っていたからです。
「わたしのために」迫害を受けるなら「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(5:12)」と言えるこの人は「わたしが来たのは律法や預言者を…廃止するためではなく、完成するためである(5:17)」と明言します。主イエスは天からこの世に入って来た方です。しかも主イエスは律法を尊重し実行し成就すると同時に、律法違反に対する刑罰をも担ってくださる方でした。だからパウロは「キリストは、全て信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられた(口語ロマ10:4)」と言ったのです。 またパウロは「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となった。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます (Ⅱコリ1:20) 」とも言っています。それは主イエスが、ご自分の人格において神のあらゆる約束を成就してくださる方だからです。そこで私たちは、主イエスこそ旧約の預言者たちが指し示したメシアだと確信をもって言えるのです。
また主イエスは山上の説教の中で「かの日には、大勢の者がわたしに、主よ、主よ、と言う(7:22)」と言われました。人々は天の神に向かってではなく、山上の説教を語ったこの方に向かって天の国に入れてくれるよう頼むというのです。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ(7:23)」。
主イエスがこの世に来られたのは、人間の能力の価値を信じ努力の可能性に懸ける私たちの傲慢を打ち砕くためです。「自分で自分を義として神の前に立つことは出来ない」ことを徹底的に知らせる為です。でもそれで終わりではありません。主イエスは更に一歩進んで、私たちの全てに新生が、新しい命が必要だと言われます。
山上の説教は聖霊を受けた神の民、神がアブラハムに約束した聖霊の賜物を与えられたキリスト者の姿を描いています。
現代に生きる私たちは、主イエスこそ神の示す新しい人であり、主イエスに属する者は全て主に似た者となると約束されていることを知っています。けれど私たちは自分の欠けを自覚しているので、中々自分が主イエスに似た者になれると信じられません。けれど私たちは、共に教会生活を送った先達たちが山上の説教にある生き方をしたいという信仰の熱望を聖霊によって起こされ、ひたすら神の国に向かって歩んだ後ろ姿を見て知っています。そして彼らのことを思い起こす度に「義に飢え乾け、聖霊を求めよ」と励まされます。たとえ先達たちのような立派な後ろ姿は残せなくて、「そうなりたいと願う心」は引き継ぐことが出来ます。もがきながらも主イエスの約束を望み、聖霊に満たされるよう祈り求めましょう。