列王下4:18−37/ヤコブ5:13−16/マルコ2:1−12/詩編147:1−11
今日お読みいただいたのは「中風の人をいやす」マルコ福音書の物語です。この中風の人は、他の癒やしの物語にあるようにイエスとの会話がありません。ですから病気の人本人に信仰があるかどうかもわかりません。その代わりに彼本人ではなく彼をイエスのもとに連れてきた人たちに確かな信仰があるとイエスは認めています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」(マルコ2:5)。癒やしの物語はこれで完結するのです。
ところが、それを聞いていた律法学者が登場し、今度はイエスと律法学者、そしてそれを取り巻く群衆との問答になります。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(同9)。イエスにとっては「起きて歩け」よりも「罪が赦される」と言う方が難しいのです。それはイエスの周りにいる全ての人──弟子たちも勿論です──の信仰に対する問いかけだからです。イエスを取り巻いている全ての人に「あなたの信仰とは何か」と問うているのです。そしてその問いに対するイエスの答え・振る舞いは、イエスを取り巻いている彼ら全員の信仰がひっくり返るような答えだったのです。そしてそのためにイエスは最終的に殺される、それほどの問いかけと、答えとしての全身全霊での生き方でした。
ということは、イエスにとってどちらが易しいかと言えば「起きて歩け」ということになります。ところが、イエスを取り巻く彼らにとって、中風で寝たきりの人が起きて歩くなんてことは「今まで見たことがない」(同12)ことです。別な言い方をするならば、もし寝たきりの病人が目の前で歩き出したら一目見てわかる。
それに比べれば「罪が赦される」という宣言は、見た目に何の変化ももたらしません。神の前に立たされる人間にとって「罪が赦される」ことの方がはるかに大事なことでしょう。その罪の赦しの延長線上に、人々から「罪の証拠」とされていた体の不具合が、奇跡的に癒やされるという出来事があるのです。イエスはそのことをここで群衆に語っている。
しかし人々はそんな見てもわからないことより、見てすぐわかる結果のほうを求めてしまったのです。残念ながら人は、目に驚くべきことこそ驚くということでしょう。だからイエスは、言ってみれば付け足しで寝たきりの病人が立ち上がるという治癒も行ったのでした。
面白いのはそのイエスの治癒命令です。「起きて、床を担いで歩け」(同9)です。病人にとって床とはなんでしょう。単なる寝具ではありません。自分の人生の全てでした。良い想い出もあったのでしょうか、むしろ辛い思い出ばかりだったのではないでしょうか。イエスに出会ったのです、イエスに癒してもらったのです。もう古い自分を脱ぎ捨てて、しがらみから全く自由になって、新しい人生を生き直すのではなかったでしょうか。ところがイエスは「床を担げ」と言うのです。まるで、「病人だった自分のことを生涯忘れてはならない」と言っているようではありませんか。
イエスに病を癒してもらった人の中には、イエスについていきたいと熱望した人もいました(「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」(マルコ5:18)等)。しかしイエスはそれをお許しにはなりませんでした(「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(同19))。イエスについていって放浪生活を送ることは、ひょっとしたら病気の故に差別され社会生活を拒絶されていた人にとっては憧れなのかも知れません。でもイエスはそれを許さずに、むしろ彼を苦しめてきた社会へ、故郷へ、家族のもとに帰るように言うのです。それは厳しすぎることに見えます。
でも、彼が暮らしているその場所で社会に戻されるべきこと以外に彼が本当に癒される場所はないのかも知れないのです。「回復」とは、具合の悪いからだが治ることだけではなく、その人が暮らしていた社会に、戻る場所に、戻ることをこそ言うのだ、と知らされるのです。
わたしたちはどうでしょう。例えば今日この時間この場所で神の驚くべき御業を見聞きし、その素晴らしさの中に永遠に留まりたいと思っても、わたしたちは現実の世界に引き戻されなければなりません。そこは宗教的な熱狂や興奮とは無縁の場所です。生身の自分、飾り立てることの出来ない素の自分の場です。振り払いたいほど染みついた寝床なのです。でも、わたしたちが生きる場所はそこです。そこで生きることしか出来ない。
しかも、罪を赦された者として生きろと主は言うのです。罪をなかったことにしてくれるのではなく、罪を赦してくださる方の支えによって、罪を背負いつつその罪を赦された者として、生身の場で包み隠さず生きていく。イエスはわたしたちにもそれを求めていらっしゃる。そういう生き方をする時に初めて完全な癒し、「回復」が起こるのですね。
その厳しさの中でたとえボロボロになったとしても、神さまはわたしたちと共にいてくださいます。「主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。」(詩編147:11)。わたしたちはイエスのいのちによって、それと引き換えに「回復」出来たのです。であれば、その回復した体をもって何をすべきなのかは明らかなのではないでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたはそのいのちをかけてわたしを回復してくださいました。あなたはご自身の教えの通り生き、それ故に十字架で殺されたのです。だからわたしたちはあなたのいのちと引き換えに回復させてもらったのです。回復されたわたしのこのいのちをもって、あなたの呼びかけに応えつつ生きることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


