箴言2:1−9/Ⅰコリント2:6−10/マルコ4:1−9/詩編126:1−6
「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(マルコ4:8)
わたしが子どもの頃、地域で毎年盛んに「種苗交換会」という催しが行われていました。もう50年以上も前ですので詳しいことは憶えていませんが、広域体育館のようなとても広い場所に、近所も含め多くの農家のかたがたが集まって、賑やかに、時に大きな笑い声を響かせながら、作物や種を見せ合っていました。私の住んでいた小さな町には八幡神社があり、毎年9月15日頃にはお祭りが繰り広げられますが、それと同じくらい賑わう行事でした。
その名前が表すように農家の方々が種や苗を持ち寄って、真剣に、時に大笑いしながら、種や苗を交換していたわけです。同じ地域でも、土には違いがあるし、同じ天気の下でも出来具合は様々で。だけどたぶんそこに参加していた人たちはみんな、「みんなでもっと良い作物を作る」という大前提に無意識に賛同していたのではないかと幼いながらに思いました。とてもステキな場所だったし、もう50年以上も前の記憶ですが、つくづく幸せな時間を過ごしてきたと思える思い出です。
ところが今、戦後の食糧不足を解消するために1952年に生まれた「主要農産物種子法」が廃止され、同じく1947年に制定された農産種苗法「農産種苗法」が改正されました。この改正は、要するに新品種を誕生させた人や会社の権利を守るという名目で、農家が登録品種の自家増殖をするのに育成者の許諾が必要となり、手間や許諾料の負担が増えるようになったのです。作物のひとつひとつにそういう手間が加わるならば、むしろ種を取ることはやめて、毎年種苗会社やJAから購入するほうが簡単だし、地域で均質な成果を得られるし、いっそのことF1種といって種が出来ないものを植えるようになっています。50年以上前盛んだった種苗交換会なんて、今開いて下手したら改正種苗法違反で逮捕されてしまいかねないわけです。狭い範囲で特徴のある作物が「手間がかかる」「収量が不安定」「流通に向かない」という理由で却下され、全国どこでも単一品種が出回っているのにはそういう背景もあるようです。
でも、「種」ってそもそもそういうモノなのでしょうか。
今日福音書にあったお話は「『種を蒔く人』のたとえ」と呼ばれながら、「良い畑になる話」として受け継がれてきました。驚くべきことに、マルコ福音書の段階で既に「説明」として13節以下が書かれています。その解説を読めば明らかに、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(同20)が結論です。つまり、イエス没後30年頃の信徒訓練として格好の材料とされてきたということでしょう。
おそらく教会の歴史2千年の間、常に私たちは「良い畑になろう」「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぼう」と願われ、祈られ、教えられてきたのです。しかしそのようにしてきた教会は、ある時期にはこの世の権力の上に立ち、あるいは「宣教」の名目で世界各地の土着文化を滅ぼし、世界各地で「正義」のための戦争で多くの人間を殺し続けてきました。「神を愛し、隣人を愛する」と言いながら平気で隣人を殺戮してきたのです。
とすれば、「良い畑になろう」という教えは全く意味をなさなかったということでしょう。それは、イエスのたとえ自体が思いっきり的外れなのか、そうでなければそのたとえを受け取った人間が的外れに受け取ったかのどちらかでしょう。そしておそらく受け取った人間が間違ったのです。私たちはどうしたって良い畑にはなれない。
でも、イエスが語ったと思われる1節から9節の話だけを取り出せば、おそらく「良い畑になろう」という言葉は一言も出ていないことがわかります。聞いている人が「良い畑になる」ために語っているのではないからです。そうではなく、神のなさることの不思議を讃えているのではないでしょうか。
イエスの時代の農業は、土を耕して畝をつくってそこに種や苗を植える私たちの農業とはだいぶ様子が違っていたといいます。耕さずに種を蒔く。だからそこが石だらけかどうかわかりません。蒔きに行く間に手から種はこぼれます。それは道端に落ちたり茨の中に落ちたりします。でも、良い土地に落ちる種もある。その種は「芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にも」(同8)育つ。それが神さまの不思議なのです。種は鳥に食べられたり成長を阻害されたりするけれども、畑に落ちた種は芽生え育つ。そして時には爆発的に実る。その全てが神さまのなさる不思議なのだとイエスは伝えているのではないでしょうか。
種こそが神さまの不思議を私たちに伝えている。だから儲けのために種を独占出来るように法律を変えてしまうことに、私はどうしても納得がいきません。「権利」によって種を独占し、「権利」によって全く同じものしか出来ないような種を売る。「買った方が楽だ」という価値観を植え付ける。そうではなく、もう開催出来なくなった種苗交換会のように、神さまの不思議を分かち合うことこそ、結局のところ神の国を来たらせる働きなのではないか。
良い畑になり損ねた私たちは、せめて握りしめた手を少しだけでも開く。そのようにして神さまの不思議に参与するよう、招かれているのではないか。私にはそう思えてしかたがないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。種が芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にも実るその不思議こそ、神さまの国であることを主が教えてくださいました。その神さまの不思議に私たちも招かれているのだ、と。主の言葉を信じ、握りしめたこの手を、僅かでも開くことが出来るよう、私たちを導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


