出エジプト14:15−22/Ⅰヨハネ5:6−9/マルコ1:9−11/詩編36:6−10
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」(マルコ1:9)
イエスの洗礼に関しては、マタイとマルコとルカが福音書の中に取り上げています。しかし注意深く読むとルカはヨハネがイエスに洗礼を授けたことは書いていません。ヨハネがヘロデに捕らえられた後でイエスが洗礼を受けたと書いているからです。また、ヨハネによる福音書にはバプテスマのヨハネとイエスとの関わりは記されていますが、イエスの洗礼の記事はありません。
この事についていちばんページを割いているのはマタイ福音書です。マタイはイエスとバプテスマのヨハネと常に対置し、イエスの方が勝っていることをその度に証言していますが、イエスの洗礼に関してもその手法を採っています。「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」(マタイ3:14−15)。
マルコは事実を坦々と記述しているように見えます。バプテスマのヨハネとの間に確執も見えません。ただ、この直後おそらくヨハネは捕らえられ、荒野で人々に道を説くことが出来なくなり、ヨハネをしたって集まってきた大勢の弟子たちも散らされていったのでしょう。イエスは洗礼を受けた直後、荒野でこれから進むべき道を祈り思い巡らしていた時でした。ヨハネと決定的に別の道を進むその時が満ちた。福音書は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と、イエスの宣教をこの言葉で始めています。
一見するとバプテスマのヨハネも悔い改めを述べ伝えていたわけです。たとえば1章4節には「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」とあります。だからイエスがヨハネとは別の道を歩み始めたようには思えないかもしれません。けれども、ヨハネは悔い改めを述べ伝えて荒野に人々を集めましたが、イエスはむしろ自分から出ていって人々と共に歩まれました。それは言ってみれば個人の罪を見つめ、洗礼によって赦しを得る道ではなく、この世によって損なわれた人々が人間として回復される道、社会によって貶められていた人をすくい上げる道だったのではないか。そのために、イエスにとっても決定的経験だったに違いない「洗礼」と決別したのではないか。彼自身は少なくとも福音書に因れば誰にも洗礼を授けてはいないのです。
「「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(同11)。この天からの声を聞いた人は誰でしょう。もちろんイエスに向かって「“霊”が鳩のように」(同10)イエスに降ったその時の出来事ですから、それはイエスに向かって天が語られた言葉です。しかしではイエスだけが聞くことで充分だったのでしょうか。あるいは「洗礼を受ける」という条件をクリアした者に語りかけられる言葉なのでしょうか。そうではなく、その場にいたであろうたくさんの人に天が語りかけた言葉だったのではないか。
悔い改めたからではない、正しいからでもない。不十分で正しく生きられない私。それでも神さまの前に、一人の人間として進み出て歩もうとする思いをこそ、神さまは汲んでくださるのではないか。私の小さな小さな決断にも「あなたはわたしの愛する子」と呼んで祝福してくださるのではないか。
井口延さんが神さまのもとに召されました。散歩の途中で転んでしまい頭部の手術を受けた後も車椅子で礼拝に通って来られました。だんだんと動きが鈍くなってゆく中でもみんなの祈りに合わせて力強く「アーメン」と唱えておられる声が、今も耳に残っています。最後に礼拝に出席されたのが2024年9月29日、初めて教会バーベキューを行った日でした。あの日も満面の笑顔で時折小雨の降る中最後まで楽しんでその場にいてくださいました。1年3ヶ月ぶりにこの6日夜、四谷の礼拝堂に帰ってこられました。「この世では旅人」である故に、その旅の途上で出会った全ての人と柔和に過ごす、その決意を貫き通した人でした。
わたしたちはみんな、神さまの存在を知らされた時にそれぞれある決断をしたのです。だからこそある者は洗礼を受けて自ら自覚的に生きようと志もしました。その決意や熱意はしかしいつも波のように熱くもなり冷めもしました。それでも神さまは、私の小さな決断を喜んで受け入れてくださり、背中を支え続けてくださる方です。「あなたはわたしの愛する子」と呼び続けてくださる方です。
井口延さんはそれを信じて歩み続けてこられました。今は旅のゴールで永遠の安らぎを得ています。その同じ恵みがわたしたちにも注がれていることを証言してくださっているかのようです。
実にわたしたちは、多くの証人に取り囲まれています。神さまは信じるに足る方なのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたに従おうと決意した私の小さな決断の中に、あなたの祝福を豊かにいただいていることを感謝します。「あなたはわたしの愛する子」と呼び続けてくださる神さまを信じ、支えられて、わたしたちの旅を歩み続けることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


