「自分にとって大切な物や人を手の中にしっかりと持っている安心感ができると、段階によって内容は異なるが、子どもは自分らしい個性的な活動をしはじめる。たったそれだけのことに、限りなく思われるほどの毎日の保育の積み重ねを要するのである。」
私立の養護学校で、「公立にまかせれば良いのではないか」と自問しながら学校法人愛育学園の校長を続けた津守眞さんの言葉である。「愛育養護学校だより」や「後援会だより」に掲載された津守さんの言葉を集め2021年に新版として発行された「愛育の庭から─子どもと歩み学ぶ日々」という本にある。
取り上げた言葉には「保育とは何か」という問いに対する明確な答えがある。発せられたのは「養護学校」という現場でのことなのだが、それはいわゆる「保育施設」に通じるのみならず、おそらく「人」が「生きる」ということの意味に普遍的に通じているのではないかとさえ思わされる。
「限りなく思われるほどの毎日の積み重ね」こそ人が生きていることの意味なのではないだろうか。逆説的に言えば人が生きているのは「成果」を得る、もしくは挙げるためにあるのではないということ。そして津守さんはそれを「要するのである」と言う。そうせねばならないということだろう。少なくとも「毎日の保育」を要する場ではなおさら。わたしはそれを「失敗をする(重ねる)場所」と呼んで来た。幼稚園は一人ひとりが失敗を経験する場であり、失敗が(経験である以上)許される場であるべきだと思う。そして本当は「幼稚園」という場に限ったことではなく、もう少しユルく社会に(つまりオトナに)広がって行くことをわたしは願っている、ということでもある。
もちろん時に人は重過失を犯すこともある。ただそれだって人生でイキナリではなかろう。そうならないための練習が必要なのだ。逆にその練習を重ねられなかったからの重過失ではないか。
「AIより愛」だよ。だが慰めもAIから受けたりするんだなぁ。
2025
23Nov
四谷快談 No.243 限りなく思われる積み重ね


