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2025
23Nov

「王の王」滝澤 貢牧師

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https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2025/11/20251123.mp3サムエル上16:1−13/Ⅰテモテ1:12−17/マルコ10:17−31/詩編89:20−30

 「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(Ⅰテモテ1:17)

 預言者サムエルはイスラエルに王を立てるのを許したくはなかったのですね。しかし人々は王を欲しがる。それは神がイスラエルの民に捨てられた瞬間でした。それほどの代償を払って得た王サウルは、アマレクとの戦いで神の命令に従いませんでした。その話しはサムエル上15章にあります。サウルを裁くサムエルと、その裁きに反論するサウルとの激論が記されてあります。そしてここで有名な言葉が発せられます。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(同15:22)。
 わたしはサウルがどうして王位を退けられる必然があったのか、良くわかりません。そもそもで言えば、アマレクがイスラエルに邪魔をしたと言われていること自体が根拠薄弱で、その薄弱な根拠を基に「聖絶」を要求する神の方が理不尽でさえあります。15章のサウルの弁明を読むと、少なくとも彼はアマレクとの戦いに出陣してくれた兵士たちの労を労う人であったことがわかります。自分の手柄として記録させることも、それ自体が責任を兵士になすりつけて自分が有利になるようにはかった根拠とされるのが一般的な説明ですが、なんだか腑に落ちません。最初から「サウル=悪人」という公式があって、出来事をそれにつじつまが合うように配置しているようにしか見えないのです。
 そもそも人々が王を欲したのは、ペリシテに苦しめられている民が強い王を先頭にその争いに決着をつけ、カナン周辺で安定した国となるためでした。ところが神は、どういうわけかわからないけれども決してペリシテを滅ぼしません。いつまでも宿敵としてイスラエルの前に立ちはだかる存在として置かれ続けているのです。そしてサウルは人々のそういう願望を叶えた王でした。今回アマレクと戦うことは、イスラエルにとってほとんど意味のないことで、人々も願いもしていないことです。その戦いに勝ったサウルが、戦った兵士の声を聞いて最上の獲物を取り分けておいたのです。
 今現代だって、例えば選挙があると有権者は「有権者の声を聞いてくれる候補者」に投票するでしょう。わたしたちの代表者として国会で法律を作る仕事をしてもらうのだから、わたしたちの声を無視したり、声に反することをしたら、次の選挙では当選させないでしょう。もちろんその「声」は多様ですから、出来るだけいろんな声が反映されるのが望ましいわけで、今そうなっているかどうかは少し、かなり、疑わしいですね。でも、それは脇に置いておくとして、政治とは人々の声に聴くことが第一だと、少なくとも建て前としてはそうでしょう。その結果、選挙が終わった途端身分関係が逆転する例も溢れていますよね。兵士の声を聞いたサウルが、その戦争の勝利を自分の手柄として石碑を建てることなんて、現代的に考えたらかわいい話です。
 しかし、その行為がサウルにとっては「神の命令を聞かない王」という決定的なレッテルを彼に貼り付けることになったのです。つまり、王とは、どのような時であっても先ず、神の声に聴き従わなければならない存在だということでしょう。人の声ではなく神の声。サウルはそれが出来なかったと断罪される。でもそんなこといったい誰が出来るでしょうか。
 あるいは「神の声を聞いた」と称してとんでもないことを引き起こす者も歴史の中では多数存在しました。「王権神授説」といって、王の権威は神が授けてくださったという絶対君主も多数いました。だから歴史に学んだ先達たちは宗教と権力とを切り離すことにしたのです。近代憲法が「政教分離」を記しているのはそういう知恵です。そしておそらく不十分ではあったかも知れないけど、イスラエルも歴史的に王と預言者とは別の者として立てられてきました。それが知恵だったのでしょう。少なくともサムエルはそういう預言者としてイスラエルのトップにいたのです。どうしてサムエルはサウルを嫌い続けたのか。サムエルが渋々王を立てるという行為も、そういう背景を想像したらなんとなくわかります。
 ダビデ大好き人間が書いた「ダビデ台頭史」と呼ばれる部分が、今日お読みいただいたサムエル記上16章から始まります。つまり王権がサウルからダビデに移って行くことこそ神の意志であるという主張が、この箇所から始まるのです。ではダビデは「何よりも神の声を聞く」王であったのでしょうか。わたしはそうは思えません。ダビデにとどまらず誰にもそんなことは出来ないし、出来なかったことは人間の歴史が証明しているのではないか。
 しかし確かにこのダビデはイスラエルにとっては待ち望まれるメシアのモデルとしてその後もユダヤ教の中で非常に大事な存在となります。イエスもまた人々から「再臨のダビデ」「メシア」と期待されたのです。ところがイエスは、人々が求めるようなメシアになることを拒絶します。ついに最後は十字架にかけられて時の権力によって殺されるのです。
 そのイエスは、「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)と自称するパウロに「キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しに」(同16)なったと言わせます。罪人で、その最たる者に先ず「限りない忍耐を」示すのがイエスだったというのです。
 このかたが「永遠の王」(同17)です。この王は権威を振りかざす方ではなく、神の声に聞き、神の御心をこの地上に具体的に現し、それゆえに時の権力者によって殺害される王です。しかし実際に手を下した者たちをその場で赦し、罪人に対して限りない忍耐をお示しになり、神のもとに立ち帰ることを待ち続けてくださる王です。その王に魅せられたわたしたちは「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」(同16)とさせられているのです。
 わたしたちはこのかたが王の王であることを知っています。神が求め給うた王であることを知っています。この王こそわたしたちを神の方へと導いてくださる王であることを知っています。わたしたちはこの王によって生かされたのです。新しい命を今日与えられたのです。これがわたしたちの王の王、その王の職務です。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。「何よりも神の声を聞く」ことの全く出来ないわたしたちを、あなたは滅ぼし尽くすことをせず、逆にみ子をお与えになることでわたしたちの罪を自覚させ、あなたの救いに与るようにと招いてくださることを改めて感謝します。主イエスの導きによりあなたを信じる者へとつくりかえてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.243 限りなく思われる積み重ね

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