出エジプト6:2−13/ヘブライ11:17−29/マルコ13:5−13/詩編77:5−16
「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。」(出エジプト6:13)
わたしの育った教会は少し特別な教会です。一つの教会ですが、礼拝する場所を6箇所もっています。そのうち礼拝堂を建てているところが5箇所、家の教会として個人の家で集まっているところが1箇所です。集会場所を車で走る時、一番遠いところだと3時間弱ほどかかります。その6つの集会で、現住陪餐会員はわたしが子どもの頃で90人を少し超える程度、今現在は50人ほどです。
もちろんわたしもその教会で子どもの頃を過ごしました。その頃牧師は一人だけでした。汽車やバスで移動していましたので、両親のいる教会が礼拝をするのは毎週火曜日の夜と決まっていました。その次に赴任した牧師は車で移動するようになり、協力牧師や副牧師なども教会で働くようになって、今では基本的に日曜日の午前と午後を使ってほとんどの礼拝堂で礼拝するようになっています。
単独の教会なのですが、信徒が一堂に集まるということは年に数回しかありませんでした。教会自体が小さな教区のようだったのです。修養会は泊まりがけで行っていましたのでその修養会で一年に一回顔を合わせる友人もいました。今は全教会員が一堂に会することも高齢化の故におそらく出来なくなっていることでしょう。
でもこういった風景を私は「普通のこと」として育ちましたので、高校生になって別の教会に通うようになると、私の育った教会はとても「特殊な」ところで、そういう風景は「特殊なこと」だったと知りました。
我が家は家庭を開放して土曜日に主に母が教会学校をやっていました。子どもの頃は当然それに出席するのを強制されていましたので、中学校になって部活に勤しむために教会学校を休むことが出来るのが一番の喜びでした。
そういう訳でしたので、子どもの頃、家族がクリスチャンであることが誇りだったことなど一度もありませんでした。以後、この歳になる今でも、自分がクリスチャンであることを積極的に、肯定的に評価したことは先ずありません。何でもかんでも「ハレルヤ!」という人がたまにいますが、わたしはどうしてもそういう人間にはなれませんし、ハズカシイというよりも子どもの頃の記憶がよみがえって体がこわばってしまうのです。
その後キリスト教や神学を学ぶようになって、今度は少し違う意味でキリスト教は「栄光」ではないのだという確信を得るようになりました。言葉で正確に言い表すのは少し難しいのですが、今はやりの言葉で言えば、キリスト教は決してこの世で「勝ち組」ではないのだ、ということです。勝ち組になるためにキリスト教を選ぶのはそもそも間違いです。多数派になりたいためにキリスト教を選ぶことはそもそも間違いです。この世の栄光や名誉、賞賛を得るためにキリスト教を選ぶのはそもそも間違いです。良い人になるためにキリスト教を選ぶのはそもそも間違いです。キリスト教はそもそも、そういうこととは無関係なのです。
今、「この世で」とわざわざことわりましたが、では「あの世」では勝ち組なのかと問われると、それも必ずしもそうとは言い切れないです。ただ、「あの世」で勝つために「この世」でキリスト教を選ぶというのが、そもそも間違いなのです。
良く気をつけていただきたいのは、わたしはここで「キリスト教」と言っているという点です。キリスト教やキリスト教徒、クリスチャンを選択するのは、この世の勝ち組になるためではありません。キリスト教やキリスト教徒にそのような幻想を抱いてはいけないのです。勝ち組になるためにはなんの力にもなりませんし、何も出来ないです。
神に喜ばれる生き方をする人は、必ずしもクリスチャンとは限りません。他の宗教を信じている人や、そもそも無宗教の人だって神に喜ばれるであろう生き方をしている人はたくさんいます。つまり、クリスチャンだから特別に出来ることは、この世においてはほぼないのだと思います。では、わたしたちがクリスチャンでいることの意味は一体なんでしょうか。
「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」(ヘブライ11:27)と、今日読んでいただいたヘブライ人への手紙に書いてあります。ここだけ切り取ればモーセはたいそう勇ましくエジプト王と向き合っているように読めますが、同じく今日読んだ出エジプト記には随分弱気なモーセが登場しています。「モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」」(出エジプト6:12)。あまりに違いすぎてどちらかがニセモノのようにさえ感じますが、たぶんどちらも間違いなく本当のモーセでしょう。そしてそんなモーセの姿に、私たちはたくさんのことを教えられるように思います。
わたしたちがクリスチャンでいることの意味は、たとえこの世がどういう世の中であったとしても、どれ程ひどい世の中であったとしても、そのど真ん中に神がおられるということを知っているということです。モーセもファラオがどれ程の無理難題を同胞イスラエルに課していたか知っているのです。それがあまりに過酷だったが故に、その呪縛から脱出出来るなんて夢にも思えなかった大勢のイスラエルの中の一人に過ぎなかったのです。しかしそんな絶望と無力感に苛まれているモーセを用いたのは神ご自身でした。つまり、イスラエルの、そしてモーセのその苦しみを真ん中で神が担ってくださったのです。私たちはだから、人の目に見えない神さまの救いのご計画を、見えないにもかかわらず「見ているようにして、耐え忍」ぶことができる。それがわたしたちがクリスチャンでいる意味ではないでしょうか。
わたしたちは、神さまが「救う」と約束してくださったことを知っている者たちです。「知っている者たちだけを救う」という約束ではありません。創られたすべてのものを救うという神さまの約束を知っているのです。人々の目には決して見えないそのことを、ありありと心の中に思い浮かべることのできる者、それこそがクリスチャンです。この現実の世が「神の救いの約束」に満ちあふれていることを知っているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたの救いのご計画を信じることがゆるされていることに感謝します。それを証しし続ける一人とならせてください。被造物が全て呻く中でも、神さまのご計画が進みますように。そのためにわたしたちも用いられますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。


