出エジプト20:1−17/エフェソ5:1−5/マタイ19:13−30/詩編119:33−40
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」
(エフェソ5:1)
新共同訳では5章1節の言葉を「倣う」、「にんべん」に放送局の「放」(はなつ・はなれる)を書いて「倣う」と当てはめています。口語訳聖書では平仮名で「ならう」と開いています。本田哲郎さんの翻訳でも平仮名でした。個人訳ではバリエーションがあります。例えば柳生直行さん訳では「神に似たものとなるように努めなさい」、岩波版・保坂高殿(たかや)さん訳では「神の模倣者」です。リビングバイブルでは「何をするにも神さまを模範としなさい」と訳されています。
「ならう」という言葉を聞いて頭の中に漢字を思い浮かべるとだいたい2種類が浮かんできます。ひとつは今日の聖書にある「にんべん」の「ならう」ですが、もう一つ、そしてたぶんこちらの方を思い浮かべる人が多いと思いますが、「習字」などいわゆる「習い事」に用いる「習」という文字です。
一般的に「習い事」の「習」で「ならう」と読ませる場合には「教わって身につけること」となり、「教わる」という意味が強めになります。一方「にんべん」の付く「ならう」の場合は「手本として真似ること、見本にする、準ずる、従う」という意味が強めになります。教わって身に付けるのが「習い事」の「習う」、受動的表現で、誰かや何かを真似て見本にする場合には「にんべん」の「倣う」という能動的意図が強めの文字が使われると大まかに分類出来ると思います。
すると今見てきた様々な聖書の中で、この箇所に「習字」の「ならう」を使ったものがひとつもないということに先ず気がつきます。
それは当たり前といえば当たり前です。神自ら私たちに何か教えるということは先ずあり得ないからです。私たちが直接神から習うことは出来ません。一方、例えば聖書に記されている言葉や、イエスが民衆に語ったたとえ話が神を表しているとしたら、わたしたちはその聖書に書かれていることや出来事、イエスの言動を手本とすることは出来ます。そうやって間接的に「神に倣う」ということは可能です。だから「にんべん」の方を使うのかも知れません。
ではギリシャ語原典ではどうなのか。ここには「μιμηται」という単語が使われています。新約ギリシャ語辞典では当然ながら聖書翻訳と関わりますから、「模倣者」「見習う者」という訳語が書かれています。これが名詞になると「μιμος」で、この単語には「俳優」という意味もあります。英語の聖書ではほぼ一般的に「imitetor」が使われます。イミテーションというと日本語の語幹では「まがい物」というようなネガティブなイメージがつきまといますが、「imitetor」は基本的にはネガティブな意味はなさそうです。
ここまで「ならう」ということを考えてきました。エフェソ書の著者は、3節以下に挙げられているようなことを行わない者という意味で「神に倣う者」と使っているようです。つまり「神に倣う者」にはそれ相応の品位みたいなことが前提として課せられているのですが、しかし3節以下を読んでみると様々なふさわしくないことが全て「つまり、偶像礼拝者」(5:5)という言葉でまとめられている、集約しています。エフェソの地域にあっては最大の問題でありキリスト者にとって最大の強敵が「偶像礼拝者」たちだったということではないでしょうか。生活のあらゆることに「偶像礼拝者」的なものが潜んでいた。そしてたとえ偶像であれ、それが「神」として人々の生活に深い影を落とし、雁字搦めにされていた。とすれば、そういう生活から決別することこそ、その人を真に解放する道であったに違いないのです。
そうであれば「神に倣う者」とは、偶像礼拝するような輩とは一線を画し、自らを清く保つファリサイ的分離主義を生きるススメということではなく、全く逆に、偶像に囚われてしかし厳然とした力を振るう者たちを、真に解放する良い知らせを伝える者として生きよ、というススメではないか。それはエフェソという街で「神に倣う者」が「偶像礼拝者」たちを駆逐して、革命的に力関係を逆転してその街を品位ある麗しい場所にすることが目標なのではなく、人々に相手にされなくても「神に倣う者」として良い知らせを伝え続けることが求められているということなのではないか。それは紛れもなく、イエスの歩んだ道そのものなのではないか。そう思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたのご計画を信じ、自分に課せられた務めとしてそれを生きた主イエスは、世の人びとに受け入れられることなく十字架で殺されてしまいました。あたかも負け組のようなその生涯は、しかし神さまのご計画の勝利だったのです。私たちはこの世にあって勝つことに憧れます。しかし神さまのご計画による「勝ち」とは、私たちの思いとは全く別であることを知らされました。主イエスが伝えた神に倣う者として、この世の勝ち負けではない神さまの目から見る勝ち、それがたとえ苦難の道であっても、その勝ちをつかむ者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。