エゼキエル37:15−28/1コリント1:10−17/マタイ18:10−20/詩編147:1−7
「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1コリント1:10)
今引用しました聖句「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず」という言葉ですが、「言わず」「せず」という行動の否定辞が付いた状態が「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」った状態だとおそらく言っているのでしょう。
この「一つ」という言葉はまた、英語訳の聖書で見るとなんだかとってもアメリカ的だなぁと思わせる訳語が書かれています。例えばRSVと呼ばれる米国で馴染まれている聖書には「no…but that you be united」という言葉が綴られていますし、新しいと呼ばれたNIV訳では「that you may be perfectly united」と綴られています。かの国は「Unitde states」ですからことさら「unite」「unity」がお好きかも知れません。まぁその一致とか団結とかいう米国の基本的心理が今かなり際どくなっているようです。米国のSNSではもはや「内戦」という言葉が多数飛び交っていると聞きます。
ではギリシャ語聖書ではどう書かれているか見ると「καταριθμέω」という単語の変化形が使われています。これは「加算する」とか「数に入れる」「属する」という意味のようです。「unity」がかなり強い意志、堅く厳格さを感じさせる言葉であるのとは全く違ってとても広い、あるいはとても緩い感覚の言葉ですね。
ということは、パウロはこの箇所で、厳しい「unity=ひとつ」というイメージではなく、とても緩くおおらかな「ひとつ」をイメージしていたのかもしれない、という仮設が成り立ちます。そんな悠長なことをいっている場合ではないにもかかわらず、です。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(11)という状況はパウロにとってなんとも悔しい、自分の思いが伝わっていないのではないかと、これまでの自分の働きが拒絶されたか全否定されたような、そんな状況だったと思われるのです。にもかかわらずパウロは、コリントの教会の人たちに「unity=ひとつ」を強要していない。なぜでしょうか。
ここでさらに仮説を加えるとしたら、キリスト者の言う一致というのは「unity=ひとつ」ではないと、他でもない神さまが考えておられるからではないのかということです。つまり、神さまが「ひとつ」という時には、ただ一色に塗り固められた状況を指すのではなく、たっぷりとグラデーションの利いた豊かな色合いを求めておられる。今でこそ「生物多様性」などという言葉が普通に使われますが、まさに神さまのお創りになった世界は「多様性」に満ちているということなのではないか。その神の創造を考える時、パウロも神のそもそものご計画に従う言葉を慎重に選んでいるのではないか。そう思えるのです。
コリント教会の争いは、パウロの言葉をそのまま借りれば「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っている」(12)ということです。パウロとすれば「わたしはパウロにつく」だけで良い、他のヤツらについて行ってはならん、とは言わないのです。ホンネはともかく、です。しかし3章では「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(3:6)と言い切っています。彼の結論はこうです。「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(3:7)。
音楽の世界には「harmony」という美しい言葉があります。一般的には「調和」と訳されますが、辞書を見ると「符合」という訳語もあります。「二つ以上の事柄やものがぴったりと合うこと」を指す言葉で、これには「一致」という意味もあります。ということは「harmony」という「一つ」もあるということです。
さらに音楽の世界では「トゥッティ(Tutti)」という言葉もあります。「総奏」や「全合奏」と訳されます。例えばオーケストラの構成員全員が集まって一緒に練習をすることを指します。イタリア語では音楽だけでなく例えば学校の部活動など、複数の人が心を一つにして取り組むという意味合いで使われることもあるそうです。もちろん「unity=ひとつ」という意味の「unison」もあります。複数の人が同じメロディや同じ音を同時に奏でる音楽用語です。また、音楽以外では行動や動作の一致、調和、合致といった意味でも使われるそうです。
今日は「一つ」ということを巡っていろいろ考えてきました。「信仰告白による一致」とか「教憲・教規による一致」ということがわたしたち日本基督教団の中で今盛んに飛び交っています。このような「一致」を乱す者、牧師や教会は排除される時代です。しかし、「一つ」とは彼らの言うような「unity」「unison」だけではなく、見て来ましたように「harmony」や「Tutti」だってあるのです。まして神の御心が極めて狭いたった一色でしかないとはどうしても思えません。豊かなグラデーションの世界を、わたしたちはこれからも目指してゆきたいし、その考えから全てを「加算する」「数に入れる」人であり組織でありたい。あらゆる人や考えをできるだけ排除しない、できるかぎり全て「属していいよ」と言える人になりたいと、そう願います。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたは世界を美しいグラデーションで彩られました。それゆえにわたしも、あなたのおつくりになった世界の中に属していることが出来るのです。そのように信じる故に、あらゆる人や考えをできるだけ排除しない、できるかぎり全てを受け入れてゆく者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。