エゼキエル18:25−32/使徒17:22−34/マタイ3:1−6/詩編25:1−11
「それで、パウロはその場を立ち去った。」(使徒17:33)
神学生時代、全学修養会でどんな話をどんな講師から聞きたいかを話し合いました。学生たちから出た切実な思いは、「先輩牧師を講師に呼ぶと大体成功した話しかしない。そういう自慢話をされても全く共感できない。誰か失敗談を話してくれる先輩牧師を講師に呼んで欲しい。」という結論になりました。わたしは当時学生会長で、講師を依頼するのも仕事の1つでした。先輩牧師に対して「あなたの牧師としての働きは失敗だった」と決めつけるような交渉をするのは勇気がいりました。さんざん考えた挙げ句、恩師である村上英司牧師にお願いすることになりました。学生会での話し合いのことを正直にお話ししまして交渉したのです。先生は大笑いして「わかった」と、二つ返事で引き受けて下さいました。先生は修養会で実に楽しそうに後輩学生たちに農村伝道の面白さをめいっぱい話して下さいました。そしてその修養会から半年後に天に召されていったのでした。
わたしたちに取り憑いて離れない欲望の一つは、自分の道が正しいと信じて疑わないことではないかと思います。自分の歩いてきた過去を自分以外の誰からも批判されたくはないのが正直な気持ちでしょう。本当は牧師の失敗談が聞きたいし、それを聞くことはこれから牧師になる学生にとっては本当に大切なのですが、牧師にしたって人間ですから、自尊心を持っている、場合によっては人一倍強かったりもします。「謙遜になれ」と説教で語ることは出来ても、自分が謙遜でいられるかといえば決して簡単ではありません。今お読みした使徒言行録の言葉、「それで、パウロはその場を立ち去った。」(17:33)には、単語以上のパウロの落胆が読めてとれます。パウロがそうだったのかどうか本当のところはわかりませんが、パウロをわたし自身に寄せて考えれば、こんな場面に遭遇したらわたしは間違いなく自分の自尊心を木っ端微塵に打ち砕かれて、再起不能になるだろうと思います。
自分たちの過ちの歴史を見つめることを「自虐」だと呼ぶ人たちが思いの外大勢います。そういう方々には敢えて問いたい。「自虐ではいけないのですか」と。自虐の反対は辞書などで引くと「自愛」だそうです。自分を愛するということです。だが、過ちの歴史を見つめる人たちをあしざまに「自虐」と呼ぶ人たちのありようはどう見ても「自愛」とは思えません。どう言ったらよいか、例えば「自尊」あるいは「自慢」です。自慢話など本人は面白いが、聞く側は誰も面白いとは感じないでしょう。であればそういう方々のやっていることは「自慢」ですらない、単なる「他虐」主義ではないですか。他者をいたずらに貶めることが唯一の楽しみであるかのよう。なんともさもしい精神性です。
私たちはさもしくある必要はありません。堂々と自分たちの歴史を見つめれば良いのです。それは神さまが私たちに示して下さった道です。
1943年(昭和18年)11月に開催された日本基督教団第2回総会で「軍用機献納の決議」がなされます。全国の教会を挙げて陸軍と海軍に軍用機を献納しようという献金運動です。これは何も日本基督教団だけが行ったことではなく日本の様々な団体や地域がこれを推し進めていました。さて昭和19年にこの運動の最終報告が出ますが、これによると献金総額952,628円85銭があつまり、一機約10万円と言われた戦闘機を陸軍に三機、海軍に三機、名古屋にある金城女学院から一機、大阪女学院から一機合計8機が献納されたのです。昭和18年版「教団年鑑」には全国1875の教会の献金総額が2,257,656円とされていますから、その約42%に相当します。現在2023年の教団所属1650教会の献金総額が約95億円ですから、その42%であれば40億円にもなります。この軍用機献納運動がどれだけ大きな盛り上がりを見せたか、良くわかると思います。その背景には、敵性宗教と白い目で見られがちだったキリスト教会が、他の誰よりもお国のために軍のために協力する姿を見せる必要があった、それがこの運動の大きな盛り上がりの背景だったのではないでしょうか。
ちなみにどうして名古屋の金城女学院が一機献納したのか、その事情がわかってきました。名古屋には有名な熱田神宮があります。戦時中は学生生徒は必勝を期して学校で神社参拝することが常識でした。しかし金城女学院はキリスト教の学校故に熱田神宮参拝を行わなかったのです。これが問題だと当時の保護者から追求され、名古屋で大規模な反金城キャンペーンが盛り上がったのでした。その事態を憂慮した当時の校長が、学校として軍用機献納を決意し、一機10万のほとんどを校長ひとりが賄う形で献納したのです。そういう事情がありました。
しかしこれには後日談があります。敗戦後、戦争に協力した者はその協力の度合いによって戦犯とされ、極東裁判で裁かれ、公職を追放されました。軍用機を献納したということは完全な戦犯行為でした。そのため、金城女学院の校長は戦後公職追放処分とされました。
当時教団の指導者だった者たちは、教団の名前で8機の軍用機を献納していました。当然全員が戦犯として検挙される可能性があったのです。ところが、GHQはあらゆる分野に戦犯の追及を行いましたが、宗教界の指導者たちはその追及から除外したのです。戦後の占領政策を円滑に進めるために宗教の力を活用しようとしたためでした。そのために明らかに戦犯行為を行った日本基督教団の指導者たちは戦後その責任を追及されることなく、そのまま教団の要職を務め続けたのです。
今思えば、それこそが「戦争責任告白」まで22年を要し、「旧6部9部教師及びその家族、教会に謝罪し、悔い改めを表明する集会」を1986年に開くまで、戦後44年もかかってしまった、これらのことの直接の原因です。責任をとらなくて済んだことが良かったことだったのかどうか、その歴史に連なっている私たちは厳しいことかも知れませんがしかしその事実をなかったことにするわけにはいかない。私にはそう思えるのです。
神さまが私たちの悔い改めを受け入れる用意をしていて下さっている。その神さまへの揺るぎない信頼こそが「自慢」や「自尊」「他虐」ではない、救いへの道だとわたしは信じているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。6月のこの時に、わたしたちの教会の歴史に刻まれた3つの日を憶えます。そのどれもが、わたしたち自身の弱さとその弱さへの反動として引き起こされたことでした。わたしたちは今だに、弱さとどう向き合えば良いのかわかりません。あなたがわたしの弱さを知っておられ、しかしなおその弱さを裁くのではなく、その弱さを認めてくださるにもかかわらず、わたしたちは自分の弱さを持て余しています。わたしたちの悔い改めを、どうぞ神さまが受け入れてください。自分の全てをありのままで引き受けるときに初めて、神さまの救いのご計画があることに気づき、それに信頼することが出来ます。そこにこそ救いがあることを、今ここに改めて心に刻むことを赦してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。