列王上18:20−39/ヘブライ7:11−25/マタイ6:1−15/詩編95:1−11
「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイ6:12)
今日お読みいただいた福音書には、いわゆる「主の祈り」が含まれています。「主の祈り」とは、厳密に言えば「主が教えてくださった祈り」という意味であることはどなたも共感してくださると思います。
そう考えるのは、イエスが「だから、こう祈りなさい」(6:9)と言って示してくださったということを重要に思っているからです。この場合「こう」ということは「一言一句違わずに」というふうに考える方もおられるかも知れません。しかし、例えばわたしたちが今手にしている聖書の中でも、この「主の祈り」にあたるのはマタイ福音書とルカ福音書(11:2以下)にあり、それぞれ少しですがニュアンスが違います。もちろんイエスがこの祈りを弟子たち(ルカ)に、あるいは群衆(マタイ)に教えることになったきっかけも、両方並べてみると違うことがわかります。であればおそらくイエスはいろんな場面で人々に対して祈りを教えていたのだろうし、その場合イエスの語り草も様々だったに違いないと考える方が自然でしょう。一言一句違わぬ「主の祈り」の言葉は、だから存在しないと考える方が良いでしょう。いろんなバリエーションが最初からあったのだ、と。そういうふうに考えると、わたしたちが「主の祈り」を唱えるときに、どうしても1880年訳の文語の「主の祈り」にある種のこだわりを持つことは、間違いではないかとわたしには思えます。もっと主の祈りを自由な言葉で祈って良いのだと思います。
さて、「こう祈りなさい」の「こう」が一言一句意味ではないとすれば、「こう」は「このような内容の祈り」を指すことになります。つまり、文言ではなく祈られる内容に意味があるということです。
するとどうしても突き刺さってくるのが冒頭引用した言葉です。「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」(マタイ6:12)。ルカ版では「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」(11:4)です。さらにマタイは、祈りの言葉を教えてくださったイエスが、この言葉に続けてこう言っていることを書き留めています。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(6:14−15)。他の祈りの言葉についてはイエスも解説する必要を感じなかったのでしょうか。一方この「赦し」に関してだけはイエスも一言付け加えたかったと少なくともマタイは考えたということが如実に表れています(その他にも5:23では兄弟の仲直り、18:21−35では仲間を赦さない家来のたとえでもって「神の赦しは、他人の罪を赦したとき初めて可能になる」ということを示しています。)。
さらに「皆赦しますから」という言葉は、ギリシャ語の文法で言えば「不定過去形」というかたちが使われているそうです。不定過去形とはこの場合で言えば「既に完全に赦したので、もはや何のこだわりもない」ということを表す文法になります。「神の赦しは、他人の罪を赦したとき初めて可能になる」ということを祈りにおいて唱えるようにイエスはわたしたちに求められている。しかも「既に完全に赦したので、もはや何のこだわりもない」までに赦さなければ、あなたの罪は赦されない、ということになってしまう。だからこの一文は激しく突き刺さります。この祈りを祈りながら自分を振り返らざるを得ない。そして「既に完全に赦した」境地には一向に達していない自分を常に見続けるわけです。それはとりもなおさず、わたしもまた永遠に赦されることはないということを自覚させる、まことに恐ろしい祈りです。こんな恐ろしい祈りを毎週(四谷新生幼稚園ではほぼ毎日!!)祈り続けているのです。だから逆に、内容を深く考え一言一言をかみしめ味わいながらなんて祈れない、むしろ機械的に唱えることでやり過ごしてしまおうとしているのかも知れません。ただ、もしこの祈りをそんな風に祈ってしまえば、それこそイエスが批判している「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」(6:5)のと同じことになってしまいます。
どうしてイエスはこんな恐ろしいことをわたしたちに命じられたのでしょう。
マタイはこの「主の祈り」を一連のいわゆる「山上の説教」の中に置いています。「山上の説教」はこれまでの人々の生き方、その全領域において、神を「父」とする新しい関係、そして異邦人まで含めたすべての人々を兄弟姉妹とする新しい地平を示していると言えます。だから、これまでの慣例や風習や宗教上の教えを一つひとつ取り上げて、それをさらに深く掘り下げる、あるいは新しい意味づけをされる、その一連の中で例えば「施し」や「祈り」も取り上げられている、という場面にこの「主の祈り」が置かれているのです。
しかも14節15節が加えられていることを思えば、少なくともマタイは「神の赦し」とは「人の前で善行」(6:1)することによってとか「会堂や大通りの角に立って祈」(同5)ることによっては得られず、「自分に負い目のある人を」(同12)「既に完全に赦した」時に得られるのだ、と教えているのです。
そのように考えるならば、そもそも「主の祈り」とは天の父の、み名を尊び、み国を求め、み心をおこない、自分や他者の糧のために働き、罪のゆるしを求め、人をゆるし、誘惑や悪を退ける生き方への招きではないでしょうか。必要かつ十分と言ってよいほどの、人間の生活の指針こそ「主の祈り」の中味であって、神とともに、神の助けによって、そのような生き方をしようとする意思表示なのでしょう。今日も今から、わたしたちは自分の生き方を改め、主の示す地平に向かって小さな一歩を踏み出す決意を、主の祈りを唱えることによって共に祈るのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたが求める人間になれない罪を告白します。わたしたちの主は、にもかかわらず、神さまが忍耐強くわたしを待っていてくださることを教えられました。そして神さま、あなたの求めるような人間になろうとする決意を、神さまが認めてくださることも教えられたのです。人をゆるすことの出来ない罪を抱えたままで、しかしあなたの恵みに縋ることをどうぞ赦してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。