イザヤ65:17−25/使徒13:26−31/マタイ28:11−15/詩編16:5−11
「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。」(マタイ28:15)
マタイ福音書が復活の証人として記しているのは「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(28:1)という二人ですが、よく読んでみると、その二人だけではないことがわかります。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(4)と書かれています。
ここだけ読むといきなり「番兵たち」が登場しますが、これには訳があって、その理由が27章62節以下に書かれています。いわゆる「伏線」というヤツです。イエスが死んで、墓に葬られている一方で、「祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まっ」(62)ています。なんのためか。「『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。」(63)というのです。だから「三日目まで墓を見張るように命令してください。」(64)と。
「祭司長たちとファリサイ派の人々」は、イエスの言葉をちゃんと知っているのです。なんという皮肉でしょうか。しかし、よくよく思い出してみるとマタイは、イエス誕生の時からこういう構図を描いています。占星術の学者たちがエルサレムで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(2:2)と触れ回って民衆が不安におののいた。ヘロデ王は「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。」(2:4)とミカ書の預言を読み上げます。ヘロデ王も律法学者たちも、メシアが生まれることを、それもベツレヘムに生まれることを知っているのです。
ひょっとしたら、あの赤ん坊が昨日殺されたあの「ユダヤ人の王」を名乗る不届き者なのかどうか、それを彼らが同定出来ていたかどうかはわかりません。でもわたしたちは生まれたイエスがメシアであることも、そして確実に殺されたあと復活することも、イエスをメシアだなんて信じるわけにはいかなかったであろう祭司長たちや律法学者たちやファリサイ派たちの口から告白されている場面を、こうやって2度も見ていることになります。これこそ、なんという皮肉でしょうか。
そしてイエスが復活した事実を、イエスがメシアだなんて信じないし信じるわけにもいかない人たちが送り出した番兵たちが誰よりも先に見ることになったのです。「そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。」(27:66)その封印が解かれていることを一番先に知ったのが番兵たちだったのです。
世紀の大嘘に加担することになってしまったこの番兵たちは、その後一体どうなったのでしょう。この秘密をちゃんと墓場まで持っていったのでしょうか。「祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与え」(27:12)ますが、それはこの番兵たちがその後一生を楽に暮らして行けるほどの巨額だったとは思えません。イエスが語ったたとえ話の中に「放蕩息子のたとえ」というよく知られたお話があります。父が生きているうちに、息子、それも弟である自分の分け前を分けてほしいと願い出る。寛容な父はその申し出を受け入れ、弟はその総てを金に換えて放蕩の限りを尽くすわけです。当然ながら使えば減るわけで、しかしいったん使うことの楽しみを憶えたら、途中で軌道修正することは無理でしょう。それくらい、「カネ」という封印は案外脆いものです。
その「カネ」を与えられた兵士たちの心が永遠に封印されたままなんてことはなかったに違いない気がします。もちろん祭司長たちや長老たちが望んだように、「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」(28:15)のかも知れません。でもその話を耳にする度に、この話の発信元である番兵たちの封印は激しく揺さぶられていったのだろうと思うのです。その話が全くのデタラメであることを彼らがいちばんよく知っているからです。やがてその封印が解かれたとき、破られたとき、彼らの口から福音が、良い知らせが漏れ伝わりだし、やがてあふれ出した。
一方わたしたちはどうでしょう。「恐ろしさのあまり震え上が」(28:4)るような出来事を伝え聞いているわたしたちは、その事実を事実として受け止めているでしょうか。あるいは、ひょっとしたら、祭司長たちや長老たちがつくった合理的な話の方に引きずられて、いつの間にか心に封印をされているのではないか。そんな危機感を覚えるのです。わたしたちはどうしたって、見ないで信じる以外にない。片方にとても合理的なストーリーがあって、片方には型破りなストーリーがあって、さてわたしたちはどちらに惹かれて行くのでしょうか。
わたしたちはひょっとしたら自分で自分の心に封印をしてしまっているのかも知れません。しかし、どんなに頑なに心を閉ざしたとしても、イエスの力はそれを打ち破る。問題はわたしたちが打ち破られてしまった心をイエスに差し出すのかどうかなのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。どんなに頑なに心を閉じても、あなたはその封印を解き、打ち破ってわたしの心をつかみます。あなたに心をつかみ取られたとき、わたしはわたし自身をあなたに差し出すことが出来るでしょうか。どうかわたしたちに希望である主イエスを受け入れる信仰を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。