哀歌5:15−22/Ⅰコリント1:18−25/マタイ27:32−56/詩編118:19−29
「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイ27:46)
イエスはこれまで数々の奇跡を通して、あるいはご自分の言葉によって、人々を慰めたり励ましたり癒したりし、生きる希望を与え、救いを宣言してきました。そのイエスが今十字架に磔にされています。以前と同じように語り行うことはもはや出来ません。イエスはただただ、孤独と無力の中で、人々の罵りを浴びながら、痛みと苦しみに耐えなければならなかった。福音書はそのことを書くのです。
「孤独」という言葉を聞くと、皆さんも様々なことが思い浮かぶのではないかと思います。私にも強烈な思い出があります。
雪国の冬は午後3時をまわると暗くなり出し、4時頃には真っ暗になります。学校の帰り、例によって大嫌いなピアノのレッスンをどんどん先送りしておそらく小学生の一番最後くらいにようやくレッスンを終え外に出ました。ピアノの先生の家は街の中ですが、そこから田んぼ道を1・5キロほど行ったところが我が家でした。真っ暗な冬道でしたが、珍しく明るい月が出ていて雪景色が金色に輝いている。子どもながらものすごい孤独感を抱えながら、でも見たこともないような金色の世界をたった一人で歩いている。それが強烈な思い出です。
もう一つは手塚治虫の「火の鳥」というシリーズの「未来編」に登場する山野辺マサトです。西暦3404年、人類は荒廃した世界を棄てて地下に巨大な都市をつくって住んでいます。人類の生き方を決めるのは巨大なコンピューター。その計算により核戦争が起こって人類は滅亡します。たった一人残された山野辺マサトは「火の鳥」と出会い、死なない体に変えられて地球の復活を託される。彼は見よう見まねでロボットや人造生命をつくって孤独を紛らわそうとするのですが悉く失敗する。疲れ果てて眠るマサトに火の鳥は夢で現れて「人類は新しく生まれ変わる、それをやるのがあなたの役目」と伝える。マサトは「まさか私に生命の進化をもう一度繰り返させろというのか、それはあまりにむごい」と呟きつつも、炭素と酸素と水素の混ざり物を大海の中に垂らすのです。有機物が水に溶けてコロイドとなり、それが混ざり合って、長い長い年月をかけて原始生命になる。そこからまたとてつもない時間が流れてようやく人類が誕生する。それを最後まで見守るというストーリーです。この山野辺マサトに課せられた務めに「孤独」の最たるを観る思いがしました。今でも忘れられない作品です。
イエスの十字架もまた孤独の極みではないかと想像します。マタイ福音書では、磔にされたイエスは2度大声で叫ばれますが、それ以外には何も語りません。そのうちの一度が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(46)と大声で叫んだと記されています。逆にイエスの磔を見ている者たちは、盛んに罵声を浴びせ続けているわけです。するとむしろイエスは敢えて何もしなかった、何も語らなかったのではないかとさえ思えてきます。十字架でのあの叫びを聞き取った人たちは、「神さえも見放した」とイエスが叫んでいると思ったのでしょう。そしておそらくそれも含めて、徹底的にイエスが無力にされたのだ、と福音書記者は書きたかったのです。無力であり、何も語らないことにこそ意味があるのだ、と。人間の徹底した無力という現実に初めて、神の業が立ち上がるからです。
すべての人が、これで終わったと思ったのです。ファリサイ派も祭司長たちも、あるいはローマの巨大な権力も、そしてあろうことか弟子たちも、このイエスの圧倒的な無力のままの「死」で、すべてが終わったと思ったのです。
わたしたちはたまたま「その後」のことを知っています。しかしそれは考えてみれば本当に「たまたま」でしかありません。「死」はそれほどに、圧倒的に、すべてを終わらせる力を持っていて、その力を振るっているのです。この場に居合わせた人は、イエスに罵声を浴びせ続けている人は論外としても、イエスに望みをかけてきた人たちでさえ、「これで終わった」と誰もが思ったのです。イエスの「死」は「神の沈黙」だった。もはやこの現実から誰も逃れられないし抗えないのだ、と。そしてみんな、悲しみに打ち震えながら安息日を──何もしてはならない安息日を迎えます。すべて終わって、人は誰も何もなしえない安息日が始まった。
しかし、その誰も知らないところで、誰一人としてあずかり知らないところで、驚くべき神の御業は進んでいったのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。主イエスが十字架で、全く無力のまま、無言のまま、殺されてゆきました。「死」が圧倒的な力を振るってわたしたちを支配し、わたしたちは皆、これですべてが終わったと思ったのです。しかし、みんなが「終わった」と思っているところで初めて、神さま、あなたの救いのご計画と大いなる力が振るわれたのです。どうぞそのことを信じることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。