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2025
05Jan

四谷快談 No.197 「法」と「信仰」

  • 四谷快談

 韓国で、内乱罪の容疑により大統領が逮捕されるようだというニュースが流れた。高官犯罪捜査庁の検事ら数十人が3日早朝大統領公邸の敷地内に入ったらしい。
 だが一連の出来事を、「法律より国民感情によって左右されている」と批判的に論じる人たちもいる。法によらない行為は結局のところ信頼を失うのではないか、と。
 国際的な事柄や政治的な事柄は門外漢のわたしだが、「法によるか否か」ということだけに絞れば、例えばわたしの属する日本基督教団でまさに問題とされていることだと言えなくもない。そして問題とされているからこそ、このクリスマス、わたしは敢えてイエスの「処女降誕」説を否定した。日本基督教団の方針(と言いきったらそれこそお終いなのだぞ)が「教憲・教規と教団信仰告白に基づくこと以外存在してはならない」という姿勢なので、そんな方針など絶対に認めないわたし自身の方針として、そうしたのだ。これは「教団」の「方針」に逆らう2例目のこと。一つ目はいわゆる「オープン聖餐(もしくは「乱れた聖餐」だそうだ、ヤレヤレ)」を実行していることを公言したこと(だが今だにわたしは日本基督教団の正教師を免職されていない。「法」がいかに恣意的に利用されているかの証左。)。
 もし「信仰」が「法」によるとしたら、「信じている」という事柄の中味が「法」に照らして正しいかどうかが優先されることになる。つまり「法」が「信仰」より上位に置かれるわけだ。この時点で「方針」の根拠を「法」に置くことが、信仰の世界においてどれ程無意味で馬鹿げたことであるかわかろう。そこに示されるのは信仰の世界もこの世の常の範疇、政治的な意図。その意図故に「法」を振りかざすワケだ。単なるヘゲモニー争い。
 「処女降誕」を信じなければ「異教・異端だ」と本気で思うのか、「処女降誕」という手法を用いて信仰を伝えようとしたと思うのか。この違いは大きいのだ。この視点は重要なのだ。

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