カナダのピアニスト、アンドレ・ギャニオンが作曲した「明日」という曲がある。とてもステキな楽曲だ。日本では松井五郎が詞をつけて平原綾香が歌った。ドラマのエンディング曲に採用もされたらしい。聴いていて温かな気持ちになるのはいわゆる「ヒーリング音楽」だからなのか、それとも日本語のタイトルが「明日」といういかにもロマンを感じるものだからか。
「明日」といえば、子どもの頃「明日という字は明るい日と書くのね」という歌い出しの流行歌があった。調べてみたらアン真理子という人が作詞して歌った「悲しみは駈け足でやってくる」という曲だった。「明るい日と書く」と歌いながらちょっともの悲しげなメロディ。1969年発売だという。8歳の子どもには深い意味などわからなかったけど、今でもメロディを憶えているのがオドロキ。さすがに歌詞は歌い出しの1行しか憶えていないのでこれまた調べてみた。歌い出しに続いて「あなたとわたしの明日は明るい日ね、それでも時々悲しい日も来るけど、だけどそれは気にしないでね」。こうやって抜き出すと結構むちゃくちゃだなぁ。だけどたぶん「悲しみ」がもうすぐやって来る気配を感じている若い二人を歌った歌なのだろう。
考えてみれば「明日」というのはフシギなものだ。高度経済成長と共に成長したわたしは、子どもの頃確かに「明日は今日より良い」と体で感じて育ってきた。「明日」という言葉にはそういう感覚がつきまとう。期待を寄せて良いと思わせる何かが「明日」という言葉に潜在的にあるかのようだ。
だけど、驚くべきことに、真夜中0時をまわった途端、「明日」は「今日」になる。つまり、「明日」は永遠に来ない。しかも「明日」が「明日」であるのは「今日」だけなのだ。
ということは、「明日」とは「今日」にとって(のみ)意味があるということなのだろうか。今日の生き方(様)が、明日を決定づけるのだろうか。そういう今日を送りたいものだが。
2024
15Dec