ヨブ42:1−6/フィリピ1:12−30/ヨハネ11:28−44/詩編73:21−28
「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」
(フィリピ1:18)
先日9月26日、いわゆる袴田事件の再審無罪が言い渡されました。検察側は上訴権を放棄してはいませんから今週木曜日10月10日までは控訴できるので、無罪はまだ確定していません。事件が起きたのは1966年6月30日で、同年8月18日に袴田さんは逮捕されます。58年の歳月が流れたわけです。袴田さんが逮捕されたのは30歳、それが2014年3月27日まで東京拘置所に収監拘束されていて、当時世界最長収監としてギネス記録に認定もされています。袴田さんにとっても、警察・検察にとっても不名誉な記録ですが。
袴田さん本人は長期に亘る収監拘束により拘禁反応などの精神障害を発症してしまいますが、本人に代わって2009年3月2日より、姉の秀子さんが成年後見人制度に基づく保佐人として裁判を闘ってきました。
取り調べで警察が作成した供述調書28通はすべて証拠として採用されず排除されます。また検察の供述調書17通のうち16通も排除されました。そういう状況の中で裁判の焦点は事件後1年以上経って味噌樽の中から発見された血痕の付着していた着衣の信憑性でした。再審無罪を言い渡した裁判官は「5点の衣類」の共布と血痕、唯一証拠採用された検察官調書のいずれもが捜査機関によって捏造されたもの、と判断しました。2014年4月に発売された「週刊現代」では「裁判所が警察・検察とグルになって、袴田さんを殺人犯に仕立て上げた構図が浮かび上がる」と表現されています。
裁判所も警察も検察もグルになって袴田さんを死刑囚にし続けているというあり得ないような状況の中で、秀子さんは弟の無罪を信じ続けたわけで、その熱意には敬服します。再審無罪を言い渡した裁判長は「ものすごく時間がかかっていて、裁判所として本当に申し訳なく思っています」「確定するにはもうしばらくお待ちいただきたい。真の自由までもう少し時間がかかりますが、ひで子さんも末永く心身ともに健康であることを願います」と述べたと伝えられました。
一方、震災からの復興途中で豪雨災害に見舞われた能登地方では、そもそも平地が少なく、ハザードマップ上でも浸水区域であることがわかっていながら、その場所に仮設住宅を建てざるを得なかった訳で、案の定仮設住宅が床上浸水に見舞われてしまいます。そのダブル災害に苦しむ住民からは「神も仏もいない」という言葉が聞かれました。震災から9ヶ月、せっかく立ち上がる希望が見えはじめていたのに、その芽をつぶされてしまった。「もう無理」「もうがんばれない」という言葉がそんな状況を最も良く言い表しているでしょう。
あり得ないような状況の中で闘い続けるのも、あり得ないような状況の中で頽れるのも、どちらも現実の、生身の人間です。優秀さとか屈強さとか、そういった属性による違いではなく、どちらも生身の人間の現実なのだと思うのです。
幼稚園の教師たちの朝礼で今読まれている聖書は使徒言行録です。それも大詰めの部分で、パウロが捕らえられ、裁判にかけられ、皇帝に上訴し、ローマに護送されるという箇所です。弁明の機会を与えられたパウロは、自らに起こった出来事を力強く証しします。
あるいは「獄中書簡」と呼ばれる今日のフィリピの信徒への手紙でも、パウロの強さが思いっきり前面に出ています。パウロの現状を心から心配する人たちに向かって、教会の中でさえ、いやむしろ教会だからこそ、この現状でパウロに敵対する者がいるという現実に触れながら、「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(18)などと言い切るのはその典型でしょう。その強さに憧れる人もいるに違いありませんが、私などはこういうパウロを見ると逆に尻込みしてしまいます。自分の中に強さなど欠片もないからです。
しかし今日お読みいただいた聖書の中には、無力のどん底で神にむかって恨み節をはき続ける男の物語も読まれました。ヨブです。そのヨブに神自ら答えられたとき、ヨブは言いました。「「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。」(ヨブ42:3)。ヨブは神にむかって完全に白旗を揚げます。しかし、惨めな敗者になったのではありません。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。」(同5-6)。圧倒的な神がヨブの前に現れて、彼に語りかけた。それだけでヨブには充分だったのです。「神も仏もいない」ような状況に貶められた彼には、「神がいる」「神が言葉をくださる」というただそれだけのことが、充分すぎる「希望」だったということでしょう。
人間がどうあれ──強くあろうが弱くあろうが、神は圧倒的な存在としてこの私に向いてくださっている。私を神が正面から見据えていてくださる。私がどのような状態であったとしても、神は私から視線を外さない。それがわたしたちの「希望」なのではないか。そしてその「希望」は、神が神であるかぎり、何ものによっても奪い取られることはないのです。
だからわたしたちは、袴田さんや秀子さんのこれからの人生のために神の祝福を祈りたい。悲劇のダブルパンチに喘ぐ能登の人たちのことを祈りに覚え続けたい。私がどんなに微力だとしても、私を正面から見据えてくださる神が、その人たちを正面から見据えてくださらないはずはないからです。希望はある。誰にも奪い得ない希望は確かにある、と、祈り続けたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。人生に降りかかる困難にくずおれるときも闘うために立ち上がるときも、あるいは何も出来ず呆然と立ち尽くすときも、あなたがわたしにみ顔を向け、わたしを正面からとらえ続けてくださいますように。あなたがいつもわたしから視線を逸らさない方であることこそ、すべての人にとっての望みです.その望みを信じ続けることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。