エレミヤ28:1−17/Ⅰヨハネ5:10−21/ヨハネ8:37−47/詩編65:6−14
「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(Ⅰヨハネ5:20)
ヨハネの手紙はその名前が示すようにヨハネ福音書と関連があります。4世紀頃からこれらのいわゆる「ヨハネ文書」はゼベダイの子ヨハネが執筆したと考えられてきました。しかし聖書学の発展とともに福音書と書簡では執筆の際の歴史的背景が全く違っていることが明らかになりました。つまり、書かれた時代が違っている、けれども福音書と3つの書簡は相互に関係し合っている。その関係は3つの段階が想定できるということのようです。面白いところです。
第一段階は、イエスの死後間もなくパレスチナで「イエスがメシアである」という宣教活動が始まります。様々な伝承を集めて極めて素朴な「福音書」が出来たと考えられます。
第二段階は紀元80年から90年頃。ユダヤ教が正統ユダヤ教に強化され、それから外れるグループに対して「会堂追放」が起こります。それによってヨハネ教団は小アジアへ移動することになります。
第三段階は紀元90年から110年頃。ヨハネ教団が後の初期カトリック教会、正統主義的教会に進んでゆくグループと、その高度なキリスト論神学によって二元論的救済論を唱えるグループを始め、多くの分離分派主義が生じます。そこでヨハネの手紙Ⅰの著者などはもともと仲間内であったヨハネ教団の分離主義者・分派主義者と対立しなければならなくなり、彼らを「反キリスト」と批判するようになったのです。
今日お読みいただいた箇所は、この第三段階に進んでいた教団の様子を正統主義グループ側から見て分派集団に対して「反キリスト」と断定し、その間違った道に他の者が引きずられないように警告している手紙、ということになります。そう考えてこの手紙を読むと、例えば今日の箇所の少し前、5章6節の言葉、「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。」は、イエスが実際にまことの人間としてわたしたちの間に生きて歩まれ、十字架で殺されて血を流したということを否定するどんな神学も認めないということを言っているとわかります。この手紙の著者たちが向かい合っている相手は、もともと同じ教団内にいた人たちであるということが、だからこそ痛烈な批判の言葉となって語られる必要を生んでいるのでしょう。
今日の箇所を観ると、「わたしたちは知っています」という言葉が何度も出てくることに気づきます。これも今述べてきたような「論争」を念頭に置けば、そのように強調される意図がわかります。つまり「既に(最初から)わたしたちは知っています」という意味でしょう。わたしたちこそが正統であると言う主張です。
ただ、そうは言っても、正統か異端かということが神の救いのご計画にとって一体どれ程の意味をもつものなのか、本当のところはわたしにはわかりません。人間の世界で主導権を取ることが、神の支配する国でどれ程の意味があるのか、むしろ全く無意味ではないのかとさえ思います。加えて「わたしたちは知っています」とどれだけ強調されても、「そうかなぁ、わたしは本当に(既に)知っていると言えるのだろうか」と思ってしまうのです。例えば正統キリスト教はイエスのことを「まことの人にしてまことの神」「まことの神にしてまことの人」と言いますが、わたしは時々、いやほとんど、イエスは人だったとしか思えないことがあります。それはヨハネ教団からしたらとんでもない異端なのでしょう。
ただ、イエスが神なのか人なのかは脇に置いておくとしても、神がわたしたち人間を、それも取るに足らない人間を、なんとしてでも救おうと計画なさってきたということは信じられる気がします。そしてわたしたち人間は幾度となくその神をあざ笑っている。無力な、無意味な存在に貶めているわけです。神ご自身が傷つき痛み、何度も何度もその命を奪われ続けている。そしてあのイエスは、その事実を自分の体で、十字架の上で明らかにした。だからあの姿に、神の姿を見るのだという信仰をたぶんわたしは持っているのだと思います。
生きているけれども死んでいるようなわたしの命を、死んでも生かされる命へと変えてくださる。自分の命がそうなのだと示される。神の救いのご計画であるその出来事こそイエスの十字架での処刑と復活の物語として、わたしたちの目に見える事実としてくださったのでしょう。その事実を「わたしたちは知っています」と胸を張ることの出来る者へと変えてください、と祈りつつ歩もうと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。自分を正しい信仰の持ち主と呼ぶには全く取るに足らない存在でありながら、死んでいるかのようなわたしの命を、死んでも生きる命へと、あなたの手によって変えていただいていることを、「わたしたちは知っています」と告白できる者としてください。主の導きと神さまあなたの御手によって、わたしもまたそれが可能になるように、わたしの心を支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。