箴言9:1−11/Ⅰコリント11:23−29/ヨハネ6:41−59/詩編78:23−39
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:26)
神学生は夏になると夏期伝道実習に出かけます。わたしも仙台で行いました。その教会で出会った小学校5年生の少年は不登校継続中でした。彼はわたしのことを気に入ってくれて、夏の間よく一緒にいました。青年たちが泊まりがけでキャンプに行くのにも付き合いました。
宮城県の登米教会でキャンプを行ったのですが、教会員が差し入れにと若鶏を一羽くださったのです。それをつぶして一緒に食べようというわけです。しかし都会の若い男女はそんな経験がありません。みんな怖がって手を出さないのでしかたなくその農家の方とわたしと少年とで鶏をつぶしたのでした。
中でも少年はとても興味深く手伝い、ほとんどを農家の方の手を借りて一人でやってのけました。わたしはその様子をカメラに収めて行きました。
仙台に帰ってこの経験を「自由研究」にしたのです。写真を貼ってその作業を記して、その時に感じたことを書いて行く。大きな模造紙が何枚にもなりました。そのまとめの作業中に、鶏の羽をむしるために湯にくぐらせて、それから羽根を折って解体作業に入るのですが、その羽根を折るときに「ボキッ」という音と手に伝わってくる感触をよく覚えていると言いました。「いのちを食べるんだ」と。
すごい表現だと思いました。肉も魚も野菜だって生きている。頭ではわかっていても売られている肉や魚は「食材」の姿をしているし、野菜は声を出しません。でも鶏の羽根を折ったとき、確かにボキッと音がして手にその感触が残った。それは食べられてしまう鶏のいのちそのものの音だったのでしょう。だから「いのちを食べるんだ」と。
パウロは食事という最も友愛の表現として相応しい信徒たちの交わりの瞬間に引き起こされ続けている分団や差別、辱めを目にして、信徒の交わりとしての食事はすべて一緒に与る主の晩餐なのだと言いました。かなり激しく怒っているように見えます。そして主がなさった最後の晩餐の様子を、おそらく弟子たちから直接聞いたパウロがここにそれを再録したということなのでしょう。
主がなさって弟子たちが伝えたこの食事の意味についてパウロはこう言いました。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(26)。つまり「主が死んだ」ということを語り伝える様式としてこの晩餐の儀式がある、と言っているのです。わたしたちが今「聖餐式」とか「主の晩餐の聖礼典」とか呼んで受け継いでいる儀式は、パウロの定義によれば「主が死んだ」ということを語り継ぐためのものだということになります。
では「主が死んだ」ということを語り継ぐ儀式をなぜキリスト教会は大切な伝統としてきたのでしょう。確かにイエスは亡くなった、しかも十字架で惨殺された。でもその衝撃を人々は「わたしのために主が死んでくださった」と受け止めた。単なる悲しい死ではなく、その死によってもたらされる確かな希望をわたしたちは見る。だから主の晩餐の聖礼典を行う度に、主がわたしのために死んだということを確認し、それを受ける自らを省みることになります。
日本基督教団では「正しい聖餐」という言葉が飛び交います。これは「洗礼を受けていない者を聖餐に与らせてはならない」ということです。つまり受洗者だけで行われる聖餐式こそ「正しい」ということでしょう。
なぜわざわざ「正しい」と強調するのか。その根拠に「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」(27)というパウロの言葉が用いられたりします。この「ふさわしくない」とはどういう意味だと捉えれば良いのでしょうか。
聖餐は主が整えてくださったことです。あの日主はパンとぶどう酒を用いましたが、あの食事は本当はご自分の肉と血で行われるものだったのです。だから「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24と25)と言われたのです。イエスは自分の肉と血をわたしたちに差し出したということです。そして「取って食べよ」と。イエスの肉と血を「取って食べ」るのに相応しいと、自他共に揺るぎなく認めることの出来る人は、今ここにいますか?
驚くべきことに、たぶん「相応しい」人は一人もいないのです。みんな「ふさわしくないまま」です。ここにいる人は皆「主の体と血に対して罪を犯」(27)している。古い式文では「主の体と血とを犯すのである」と読まれていました。洗礼を受けていようが受けていまいが関係なく、みんなふさわしくないままで主の体を食べて「主の体と血とを犯している」のです。むしろその自覚のない者は聖餐を受けられないのではないか。わたしが主の食卓に直面する度に、わたしこそ「主の体と血に対して罪を犯」し続けている者だという罪の告白を迫られているということなのではないでしょうか。そうやってわたしたちは、あの少年と同じ感覚にさせられるのです。「いのちを食べるんだ」と。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしたちは他のいのちを食べなければいのちを保てません。そのわたしに、主はご自分の肉と血とを差し出し、「食べよ」と仰せになります。ふさわしくないものがふさわしくないままで主の体と血とを犯し続けることの意味をわたしたちに教えてください。そのようにしてまで買い戻されたわたしのいのちを、どのように使うべきか、道を示してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。