列王上17:8−16/ローマ14:10−23/ヨハネ6:22−27/詩編68:1−11
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」
(ローマ14:17)
東京都知事選挙について今でも時々テレビなどで取り上げられているのを考えると、ひょっとしたらなんだか特別な意味──今後の歴史に某かの波紋を投げかけるようなものだったのかもしれないと、素人ながらつらつら考えることがあります。
以前「四谷快談」にも書きましたが、いわゆる自民党の裏金問題に端を発する騒動が明らかにしたことは、有権者である市井の人々に「政治不信」をいわば確定させる出来事だったということでした。ここで大事なことは、人々にひとつの政党に対する嫌気──これを仮に「政党不信」と呼ぶとして──を生んだのではなく、政治全体に対する不信感──つまり文字通りの「政治不信」を生んだということではなかったかと思うのです。それが知事選挙の結果に反映されたのではないか、と。
現職知事は様々な意味で今の政治状況を投影された存在でした。本人はそれと同定されることを極力拒んだわけですが。そして選挙戦が始まる前から対立候補と目された人は、まさにこの現状政治の象徴たる現職に悉く対立するという手法を選んだわけです。そして一方選挙後にも注目された第三極は、そもそもの対立そのものを否定するという形で──つまり「政党不信」に終始する対立ではなく「政治不信」に応える新しい存在であることを訴えて躍進した。残念ながらその方は知事になって何をするのか、したいのかは最後まで明確ではありませんでした。仮にこのような主張がマニフェストにしっかり裏付けられた人物によって表明されたら、それこそ歴史が変わる可能性さえあったように今は思います。
それでも、その地平に達することが出来なかったのは、立候補者に責任があると言うよりも、わたしたちにとって「対立構造」ではない物事の決め方を選び取るというところまでまだ成熟し切れていなかったのが原因ではないかと思うのです。
今、知事選挙のことを申し上げましたが、対立構造を脱しきれない未成熟ということで言えば、日本基督教団も、そしてそこに「教職」として連なるわたし個人も全くその通り未成熟なままである事実を認めないではいられません。
教団の歴史で言えば1960年代後半から1970年代初めの頃が、社会における様々な問題も反映して非常に大きな波を被る時代であったと思います。この辺りのことはまたいつかしっかり学んで話したいと思いますが、この時代を経て教団の中には「社会派」と「福音派」という、客観的にいえばイデオロギーのヘゲモニー争いが始まったし、すべての行動はこのヘゲモニー争いの代理抗争になっていったとわたしは見ています。そしてわたし自身もその争いの中にどっぷり浸かってきたのです。成熟という尺度で観れば未成熟なままとしか言いようがありません。
今現代は個人の意見を表明するチャンスにあふれ、そのための技術が格段に進歩し、しかも手に取りやすくなっています。それがひょっとしたら「成熟」を阻害してしまうことも実際に起こっています。インターネットの世界では「エコーチェンバー現象」と盛んに言われるようになっていますが、自分と考えや思想を同じくする人々だけが結びつくように技術的に操作されているらしいのです。フィルターバブルなどとも呼ばれます。その結果自分(たち)の主張が多数を占めていると錯覚し、異なる意見を一切排除する方向に強く出てしまう。日本だけでなく、世界中でこういった対立構造がより激しく明示的になり、わたしたちが成熟に向かうチャンスを悉く失ってしまっている。その意味では1960年代70年代よりもっともっと厄介な時代に突入してしまっているのかも知れません。
パウロの手紙は、食べ物のことで兄弟の間に分裂が起こっていることを憂えています。たかが食べ物ではないのです。かなり深刻な対立・分裂でした。個人の嗜好や振る舞いは、簡単に他者にとっても差し障りになり得ます。昔も今もそうでしょう。そして「信仰」とか「真理」とかがフィルターバブルになり、その泡の中でエコーが起こる。イデオロギーだけが成長し、他者を排除する。今はその原因のひとつ──ひょっとしたら最大の原因──はSNSでしょう。パウロの時代はそれが食物の問題だったという違いだけです。
それに対してパウロはこう言いきります。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。」(22)。つまり自分の確信を大上段に振りかざすと、他者を切りつけ排除することになるというのです。他者にも神に対する確信があることを認められなくなるということでしょう。どちらかの主張が多数を取ることで神の御心が決まるわけではない。こんな単純なことを、パウロの時代も現代も、わたしたちは簡単に見失う。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(10)。
異なりを超える、それはわたしたちが神にあって立場は違っても一緒に成熟することだとわたしは思います。もちろん簡単なことではないことも重々承知で、しかし神の前に一緒に成熟したい、その願いや祈りを棄て去ってはならないと、未成熟ながら思わされるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。わたしの未熟を神さまの前に懺悔します。どうしても自分を正当化したいのです。自分の思いが多数の賛同を得ていることを根拠に、神さまあなたのご計画をも左右すると思い込んでしまうのです。異なりを排除するのではなく、異なりを認め異なりを超えることが出来ますように。そのために捧げられる祈りや願いを軽んじず、簡単に棄て去らない者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。