エゼキエル37:1−14/使徒2:1−11/ヨハネ14:15−27/詩編104:24−30
「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」(Ⅰテモテ6:12)
テモテへの手紙は、その後にあるテトスへの手紙と合わせて「牧会書簡」と呼ばれています。表題だけ見ればテモテという人、テトスという人へ充てた個人的な手紙に思えますが、例えば3章15節に「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(Ⅰテモテ3:15)とあるように、個人的な問題以上に教会全体に関わる問題、教会のリーダーとしてどのように導き教え、教会という組織をどう制度化するのが良いか理解してもらうことを意図しているようです。それでこの3つの書簡を「牧会書簡」と呼ぶわけです。もちろんこの手紙の内容は教会のリーダー、端的に例えば牧師にだけ向けられているというのではありません。これも、例えばⅠテモテ1章15−16節で「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(Ⅰテモテ1:15−16)とあるように、誰でもイエスによって救われるのだという前提のもと、救われた者たちが共に生きる「教会」を、良き導きの下にみんなで担い創りあげて行こうというのでしょうから、わたしたちすべての人にとっても読むに値する、意味ある書簡ということだと思います。ただ、その中でも特に教会のリーダーたる者にとって重要な教えが書かれているのは事実ですから、例えば教会の就任式だとか牧師・伝道師の按手礼・准允式などで牧会書簡が選ばれて式の中で読まれているのも事実です。
そんな牧会書簡の中で今日選ばれている箇所にはいきなり「あなたはこれらのことを避けなさい。」(6:11)と出てきます。「これらのこと」とは何かを知るにはその直前の言葉をたぐる必要があります。直前の10節にはこうあります。「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(6:10)。ということは、避けるべき「これらのこと」が「金銭の欲」であると推定できます。
いわゆる「貨幣」が世界史に登場したのは紀元前7世紀から6世紀頃、小アジアのリディアだったようです。やがてペルシャ帝国からギリシャに広がり、アテネを始め都市国家ごとに独自の貨幣が生まれた。聖書に「ドラクマ貨幣」が登場しますが、これはアテネで流通していた貨幣です。その貨幣を都市国家の間で流通させるために等価交換する必要があり、両替商が生まれ、やがて銀行に発展します。紀元前3世紀の終わり頃にはローマでデナリウス銀貨が発行されます。律法学者たちがイエスに「皇帝への税金は適法か」を問うと、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」(マルコ12:15)と答えますが、「デナリオン」というのはこれのことでしょう。つまりイエスの時代は貨幣経済が充分に発展していた時代だった。金銭に取り憑かれる人間も多数いたのでしょう。
21世紀を生きるクリスチャンであるわたしたちは、「金銭の欲は、すべての悪の根です」という聖書の言葉に、クリスチャンであるゆえに同意しますが、一方、貨幣経済なくして生活を成り立たせることは不可能です。尤も現代では「貨幣」はほぼ必要なくなり「バーコード−」でもののやりとりが可能です。「貨幣」はもはやコンピューターネットワークの中のデジタル記号でしかなくなりました。それはともかく、「金銭の欲」を警告する聖書を「聖典」として戴きながら、しかし金銭抜きには生活できない。それどころか、教会の主たる問題はほぼ金銭に絡む経済上の問題だったりする。四谷に限らず、執事会の議題は教会維持のためのカネの話に終始していたりもします。「金銭の欲は、すべての悪の根」だと知りながら、しかしそれ抜きには片時も生きられない。どちらかを棄てることなど出来ない話です。
ところがこの手紙の著者は「金銭の欲」を「避けなさい」と言い、その代わり「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と言うのです。どちらも棄てられず板挟みになっているわたしたちに対して、「金銭の欲」を「避けなさい」と。そこでのもがき苦しみをひょっとしたら「信仰の戦い」と表現しているのでしょうか。それを「立派に戦い抜き」ということは、わたしたちが直面する板挟みの苦悩の現実をそのまま受け入れろと聞こえます。著者は「信仰の戦い」に「勝て」とは言っていないのです。そうではなく「戦い抜」けと言うのです。戦い抜くという場合、それは「最後まで戦う」とか「諦めずに戦う」という意味です。勝利とはむしろ無関係で、戦い続ける、片時も休まず戦い続けるというイメージでしょう。
「クリスチャンだから金銭の欲はありません」とか「クリスチャンだからカネに執着はありません」となることがゴールではないということです。この世での信仰の戦いとはそういうことだと思うのです。この世の欲に勝つことはとてつもなく難しい。クリスチャンだから勝つのが当然などではないのです。とてつもなく厳しい戦いを戦い抜く、最後まで、諦めずに戦い抜くことがわたしたちに示された道です。戦い抜いた時に、勝敗に関係なく「永遠の命」を手にできる。わたしたちに既に与えられているのはその約束なのでしょう。
イエスが約束された「別の助け主」である「霊」を受けて、わたしたちはこの世の誘惑に抗い続ける。金の欲に抗い続け、そんなものに依らなくても人間には価値があることを本気で信じてみる。隣人を尊重する。単に相手を高く評価するだけでなく、お互いの欠点も含めて、たとえどんな状態でも、「あなたは、自分は、価値ある存在なのだ」と信じ合える。そのために戦い抜く、抗い続ける。そこにわたしたちは召し出されているのではないでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちがこの世で生きて行く限り、金銭と無縁ではいられません。それを「欲」だというだけでは切り捨てられないのです。だからわたしたちは生きている限り、その「欲」と隣り合わせで、その「欲」に抗い続けなければならない。その厳しい戦いのその時に、あなたはいつもわたしと共にいてくださることを信じることが出来ますように。たとえ勝利できなくても、悟りを開くことが出来なくても、戦い抜いた時にあなたの祝福を授けてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。