エゼキエル36:24−28/ガラテヤ5:13−25/ヨハネ15:18−27/詩編106:1−5
「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:19)
少し前、日本の株価が新記録を更新したと盛んにニュースで流されていました。2月22日に1989年以来を更新して3万9098円となって、26日には3万9233円、3月4日に入ると4万109円だったそうです。ニュースの画面には証券会社でくす玉が割られたりしていました。当時盛んに「これはバブルの再来とは違う」と繰り返され、今後仮に株価が下がる懸念があるとしたら「①アメリカの景気②同じくアメリカの大統領選挙結果③日本国内の経済の腰折れ」くらいだというのです。
わたしは株なんて買ったこともないので、史上最高値が更新されるということにどういう意味があるのか全くわかりませんが、世間が騒いでいることだけは良く理解できました。24年度半ばには4万3千円水準とも言われていたのです。よほど大きなことなのだろうなぁと感じました。
ところが4月に入るとどうも様子が変です。なかなか3万8千円に到達しません。2月3月にあれほど「下がる要因がない」と豪語していた経済アナリストさんたちは一様に声を潜めているように見えます。「景気」なんてそもそも「気」という漢字が入っているくらいだから、その実態なんて定かではない、空気みたいなもんでしょう。その空気が一気に冷えてさらに冷え込ませたのは4月14日にイランがイスラエルに直接報復攻撃をしかけたことにありました。これに対してイスラエルがさらなる報復を行ったら、第5次中東戦争に発展しかねないし、それが充分現実になり得るとなって、一気に経済に冷や水が浴びせられたのです。
何が言いたいのか。経済なんてちょっとした国際紛争ですぐ吹っ飛んでしまうということです。さすがにイランも本気でイスラエルと戦争をしようなんて考えていないようです。ただ、振り上げた拳をどうやって降ろすかを考えた結果でしょう。イスラエルはわからない。今でさえガザに対するジェノサイドとしか言いようのない蛮行を、どれだけ国際的に非難されてもやめようとしないのですから。それでもさすがに「再報復」らしい空爆が19日に行われ、イランの防空レーダーを破壊はしましたが、それ以上イランに対する攻撃を続ければ、ガザやハマスに対する戦争が継続できなくなると判断したようです。
経済学者がどんな予測をしたとしても、ひとたび紛争や戦争が始まればそんな予測はあっという間に絵に描いた餅になってしまう。ということは裏返せば、本当に安定的に経済成長を続けるなら、戦争や紛争は論外だということが明白なのです。わたしは経済学も国際関係も全くよく知らない素人に過ぎませんが、連日ニュースに登場する超一流の経済アナリストたちの言説の変化を読み解けば、そういう結論以外にあり得ないのです。
でも何故か、敵国をつくりたがるんですよね。まるで平和でいてはいけないような。そしてとても恐ろしいのは、わたしたちのような考え方をする人が、この国では、イヤひょっとしたら世界でも、とても少数派なのではないかということ。わざわざ敵意をつくり出してまで敵国や場合によっては有事までもつくろうとする人の考え方の方が、ひょっとしたら多数派なのではないか。それを考えることはとても恐ろしいです。
イエスは弟子たちにも迫害の手が及ぶことを予め今日の箇所で告げています。しかし、福音書記者であるヨハネは、イエスのこの発言を、自分の読者の時間に響くようにわざわざ編集しているのでしょう。ヨハネが福音書を書く動機のひとつが、日々ユダヤ教からの圧迫・迫害をヨハネ教団が受けていた、その状況の中で、どうやってイエスをキリストだと信じる群を守り成長させて行くかという緊迫した課題があったのです。そんな厳しさの中に立っていたヨハネの教団は、イエスが「わたしがあなたがたを世から選び出した。」(19)と弟子たちを励ましたその言葉を、リアルタイムに自分たちに向けられていると感じ、信じたのです。
そのイエスは「あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(18)と言うとおり、人々に憎まれて、十字架に磔にされて、当時最も悲惨な殺され方で殺されたのです。奇跡は起きなかった。神が万軍の軍勢を天から遣わして、十字架にまさに今磔られようとするイエスを救い出したりはしなかった。イエスは十字架の上で、母マリアの世話を愛する弟子にまかせ、「渇く」(19:28)と言われ、最期に「成し遂げられた」(同30)と言っただけでした。神は人々の喧噪とは関わりなく沈黙したまま。神の時間とは、静寂の中で進んで行くものであるかのようでした。
ヨハネ教団は、どれ程の迫害や拷問を受けても、その総ては既にイエスが受けたことであり、自分たちが迫害を受けるのはイエスによって選ばれた者のつとめであることを確信していたのでしょう。だから復活のイエスに関する証言が絶えることなく、イヤむしろかえって広まっていったのです。
翻って現代の緊張を要求される社会に生きるわたしたちはどうでしょう。敗戦という厳しい試練の後の僅かな期間を除けば、この国でキリスト教がどんどん受け入れられるなんていう時代はほぼひとときもありませんでした。もちろん伝道の業はたゆみなく続けられてきています。それでも、神がこの国でこの時にリバイバルを興すというようなことは、150年を超える間ほぼ一度もなかったのです。それは何故か。それこそが神のご計画だとわたしは思うのです。神の沈黙と静寂の中で、ごく少数でしかないわたしたちだからこそ、委ねられたに違いないことがある。信仰の目がかすんでいるためにその真意はわたしたちには見えないか少なくとも見えにくくなっているけれども、「少数である」という現実にこそ意味があるとしかわたしには思えないのです。神の静寂に身を委ねつつ、「わたしがあなたがたを世から選び出した。」との主のことばに、今日も励まされて生きたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの時間は静寂の中で流れています。人の世にどのような事態が起こっても、あなたの時間はそれに関わりないかのように、同じように流れています。その流れを見出すことができるよう、わたしたちに信仰の目を与えてください。主が仰せになったように、今、この時代に、このわたしが、世から選び出されて使命が与えられていることを、知ることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。