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2024
03Mar

「離れていきたいか」滝澤 貢牧師

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ヨシュア24:14−24/ガラテヤ2:11−21/ヨハネ6:60−71/詩編90:1−12

「イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」」(ヨハネ6:67−68)

子どもの弁当である5つのパンと2匹の魚で大勢の人が食べて満腹したヨハネ福音書の話しには、さらに続きがあります。
イエスを王にしようと企む群衆から逃れるために、彼は一人山に退きます。群衆はしかし執拗にイエスを捜し求め、ついにカファルナウムまでやって来ました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6:26)。あの時僅かな食料でみんな満足できた奇跡は、しかし一晩だけのことでした。だから群衆は今日も明日も満足できるようにイエスを捜し求めます。しかしイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(同27)と言われる。問答の始まりです。その教えによって群衆もイエスの指し示す道を自分たちも探そうとし始めているように見えます。
群衆は信じるためにしるしを求める。しかしイエスは既にしるしは示されているという。群衆の目に見えるのは、目の前にいるイエスです。彼の姿形には「しるし」と呼べるものを見出すことができなかったのでしょう。「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」(同36)。なぜなら彼らはイエスがどこから来た者なのか、あまりにもよく知っていたからです。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(同42)。問答は最後まで平行線のままでした。そしてイエスが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(同56)と言うに及んで、ついに決裂が決定的になってしまったのです。
肉を食べ、血を飲む。一昔前のこの国では、だからキリスト教が誤解されたと言われます。牛や豚の肉を食べる文化に乏しかった時代に、肉を食べ、あろうことか血まで飲むわけですから。だが、本当のところわたしたちはどんな文化のもとにいても、人間として生きる以上、必ず肉を食べ、血を飲んでいるのです。いのちを貪り食べている。
インターネットで「母乳育児」について調べてみると、大体は「栄養面で完璧、免疫機能を受け渡す、という科学的視点からばかりでなく、母乳を与えることによるスキンシップ、抱っこすることによる心臓の鼓動が伝える安心感など、メンタルの視点からも力説されています。しかし、様々な理由から母乳ではなく人工栄養で育児するという選択もある訳です。ところが、人々はたとえ積極的選択であったとしても、やはり母乳ではないということに、少なからぬ罪悪感を感じているようです。その根源はなんだろうかと考えたとき、科学的理屈でもメンタル的理由でもなく、究極的には「いのちを食べさせたかどうか」という部分が大きいのではないかと思うのです。
ヨハネは、「肉を食べ血を飲む」ということが何を意味するのか、言葉で明らかにしているとは思えませんが、しかしそれはイエスを遣わされた者だと信じるということと切り離せない事柄だと、わたしたちに伝えているのでしょう。そして残念ながらその一番肝になる部分が群衆には伝わらない。そればかりか弟子たちにさえ伝わらないのです。
「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(同66)。残ったのはほんの一握りの弟子だけでした。その12人に「あなたがたも離れて行きたいか」(同67)と聞いた時、ペトロが応えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」(同68)。
マタイ福音書ではペトロがイエスをキリストだと告白した印象的な場面があります。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)。そしてそれをイエスは受け入れ、ペトロに「あなたは岩、その上に教会を建てる」と言われるわけです。ペトロのキリスト告白はそれだけインパクトある、力強い答えだったことでしょう。でも、ヨハネ福音書はそのような力強いキリスト告白の場面を採用しません。いわば消極的告白とでも呼ぶべき「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」。実に弱々しい。
信仰とは、むしろそういうことなのではないかと考えさせられます。もちろん勇ましい告白もあり得るでしょう。でも、信仰者は、栄光の光に包まれるのではなく、信仰の闘いの中に追いやられるのです。少なくともこの世的価値観で観れば「勝利」とは呼べないような闘いへと、わたしたちは追いやられるのです。
受難節、主の苦難を思う日々の歩みの中で、この日々が終われば栄光に輝く復活があると、わたしたちは確かに知っています。でもそのことはわたしたちが自ら掴む勝利や栄光ではないのだと知るべきです。そして、かろうじてであったとしても、イエスの体に手を伸ばし、その杯を受けるというその行為に、主は信仰を汲み取ってくださる。わたしたちへの約束を果たしてくださる。だからこそ栄光を仰ぐことができるのだと知るべきなのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」(同68)。

祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちに神さまの御心を示してくださったのは主イエスです。しかしわたしたちは主イエスを理解することが出来ません。「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のはわたしたちも同じです。しかし神さま、それでもわたしたちは主イエスを離れて行く場所などないのです。かろうじて主の下に留まる私の、信仰とも呼べない信仰を、どうぞ神さまが汲み取ってくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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