イザヤ42:1−9/エフェソ2:1−10/ヨハネ1:29−34/詩編36:6−10
「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」(ヨハネ1:33)
小栗善忠牧師の葬儀で式辞を述べたのは息子である小栗献牧師でした。父である善忠牧師の略歴や父への思い、父との思い出など様々なことをお話しなさいました。式辞を述べる直前には「間奏曲」としてバッハのカンタータ106番「神の時こそいと良き時」第一曲を合奏なさいましたが、式辞の中でその曲についても触れておられました。善忠牧師の最期の時について「眠るように静かに息を引き取った。『息を引き取った』という表現は人間的な美しい表現だと思うが、むしろ『神がその息を引き受けた』ということなのかも知れない。それこそ『神の時Gottes Zeit』だ」と述べられました。善忠先生もこの106番が好きだったと後で知ったともお話ししておられました。
わたしは善忠先生からこの106番について前に伺ったことがありました。新生会委員長だった頃の善忠先生を川崎教会の一日修養会に講師としてお招きして、バプテスト教会のあゆみについてお話し頂いたのですが、その日の説教の中で善忠先生がカンタータ106番についてお話しくださっていたのです。第一曲に続き合唱になる第二曲の中の歌詞「神の時こそいと良き時、我らは神のもとで生き、動き、存在する」という言葉を印象的にお話しくださっていたことを、献牧師の式辞を聞きながら思い出しておりました。
人間のいのちの最期、その終わりのときを神は「神の時」として最期の息を引き受けてくださる。だからわたしたちの行く手には安心のみがある。その安心、平安に残された者も心を預けよう。善忠先生の最期の時はそうやって残されたわたしたちへのメッセージとなったように思えました。
でもよくよく考えたら、わたしたちは自分の最期の時を予め体験していることに気づいたのです。
わたし自身は滴礼による洗礼を受けています。滴礼ですから洗礼鉢から手で汲み取った水を頭の上に垂らします。15歳のクリスマスでしたので暖房の効いた礼拝堂で気分も高揚している中で頭から垂れてくる水が首筋に流れる冷たい感触を時々思い出します。でも滴礼はどちらかというと「罪から洗い清められる」という感覚が強いように思います。ダビデがバト・シェバと犯した罪を預言者ナタンによって追求された時にダビデが歌ったとされる詩篇51編に「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」(51:9)という詩がありますが、この感覚かも知れません。
一方バプテスト教会が大切にしてきた浸礼は、文字通り水に浸す行為です。浸すというより水に沈めるという方が実際の所作です。そして水に沈められるということが少なくともユダヤの人々にとっては出エジプトの出来事を想起させることだったわけです。進む目の前に葦の海が広がり、背後からは世界最強のエジプト軍が迫って来るその絶体絶命の時に、神が海をふたつに割り、乾いた土の上を人々は逃げ果せた。その出来事を思い起こし、水によって古いものに死に、新しいものへと生まれかわる追体験をする。水をくぐるこの体験を洗礼、特に浸礼として固定したのがバプテスト派でした。
つまりわたしたちは浸礼によって自分の最期を神さまによって引き取ってもらう経験を既にしている予め体験しているのです。でもわたしたちはそれでお終いではありません。そうではなく、古い自分がそこで死んで、しかしそこから起き上がらされて、新しいいのちを生きるために引き上げられたのです。ですから、今生きているわたしたちのいのちは自分のものではなく、神が既に引き取ってくださったそのいのちを今生きていることになります。それは必然的に誰かのために使ういのち、ということになります。
主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになる。降誕節第2主日の主題は「イエスの洗礼」です。わたしたちは自らの罪を憶え古い自分が洗礼によって死に、新しいいのちを与えられくぐった水から引き上げられたのですが、イエスはそうする必要がそもそもなかったわけです。しかしそうなさった。それによって、私たちの罪とイエス・キリストの義の取り換えが起こる、そのために必要なことでした。私たちの罪をイエス・キリストが担われる。そしてイエス・キリストの義を私たちが身に受ける。それによってイエス・キリストは、あたかも罪ある者のごとくそれを引き受け、私たちは、あたかも罪のない者のごとく、義とされる。ヨハネは「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」(1:31)と証言します。イエスとわたしたちとの取り換えのためにバプテスマのヨハネは洗礼を授けていたということになります。
2024年は能登地方で震度7を超える地震が発生するという衝撃的なことから始まりました。わたしたちは改めて、日常の当たり前が当たり前ではないこと、わたしたちの力で出来る備えには限りがあることを目の当たりにした年明けでした。それでも、わたしたちは自分の終わりを既に知っています。わたしの終わりは神が引き受けてくださる。その平安が約束されているのだから、わたしたちは与えられたいのちを存分に生きることが出来る。自分のためにではなく誰かのために誰か他の人のために誰か他のいのちのために生きることが出来る。その時わたしたちはキリストのいのちを生きる者とされる。そのためにわたしたちは起き上がらされた。その事実を心に刻んで今年を歩み出したいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの生涯を神さまが引き受けてくださることを感謝します。それゆえに水から引き上げられ、引き起こされ、いのちを与えられた者として、そのいのちを誰か他のいのちのために用いることを得させてください。わたしたちは神さまのもとでのみ生き、動き、存在するのです。その確かな信仰をもあなたによって与えられ、新しい年を生きて行くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。