列王上22:1−17/Ⅱペトロ1:19−2:3/ヨハネ5:36−47/詩編147:12−20
「しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、「まず主の言葉を求めてください」と言った。」(列王上22:5)
わたしは自分の成長期が高度経済成長期と丸かぶりしていますので、自分の成長過程がどうしたって「もっと大きく、もっと強く」というレールに乗っかっていたことを認めないわけにはいきません。音楽家の山本直純さんが出演された森永エールチョコレートのコマーシャルで瞬く間に流行語となったことばが「大きいことはいいことだ」でした。1968年のことです。そういう時代を過ごした少年ですから、わたしの骨の髄に「大きいことはいいこと」「強いことはいいこと」が染み付いています。
今日お読みいただいた列王記は少し解説が必要かも知れません。この箇所は「三年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった。」(21:1)という言葉から始まります。これはおそらく、イスラエルにとってもアラムにとっても共通の敵であるアッシリアが台頭していることと関係があります。イスラエルとアラムは他の国々とも同盟を結んで軍事大国アッシリアに対抗していましたが、その時代の出来事だということでしょう。
そして「ラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。」(3)と続きます。この町はソロモンの支配した当時でも極めて重要な場所で、アラムとの国境地域でした。要衝だったということでしょう。そこをアラムが実効支配しているわけです。その要衝を奪還しようとイスラエルの王は諮っているのです。
そういう時に「ユダの王ヨシャファトがイスラエルの王のところに下って来た。」(2)とあります。元はひとつの国であった南ユダと北イスラエルですが、様々な理由で北イスラエルの方が強く大きかった。「下って来た」という表現は現実とは真逆です。アハブに呼び出されてやって来たのです。ヨシャファトの父アサの代には南ユダは北イスラエルに対抗するためにアラムと手を組んでいて、南北で紛争が絶えなかったのです。そして南ユダが北イスラエルによって打ちやぶられて、北イスラエルに隷属していたのです。ヨシャファトの息子ヨラムはアハブ王の娘のアタリヤと結婚しています。国の安全保障のために政略結婚させられていたということでしょう。
だから今22章の情勢は、北と南が同盟を組んでアラムを押しやってラモト・ギレアドを奪還しようとしている。そういう状況です。既にアハブ王は出兵を決めています。北の住人は戦闘態勢に向けて闘志を燃やしていたのだと思います。しかしそんな危急の事態に呼び出された南ユダのヨシャファトは「まず主の言葉を求めてください」(5)と言うのでした。
選ばれた400人の預言者はそれぞれの手法で神の言葉を王に伝えます。手法は違っても言っていることは同じ「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」(12)でした。既に北では戦闘の機運が盛り上がっている。いつでも戦いにはせ参じ、しかも勝利することを確信しているのです。少なくともアハブがそう決意していることをこの400人はよく知っていたし、その王の心を忖度せずにはおれなかったのでしょう。
そしてアハブの行いに端的に表れているもう一つのこと。それは結局わたしたちは自分に都合の良い情報しか必要ない、ということです。聞きたいことだけを聞きたいように聞くのです。それをよく知っているから預言者400人は王の聞きたいことを王の聞きたいように語った。しかしミカヤは、彼の立場からすれば偽預言者に過ぎないその400人の預言の言葉も、実はまことの神が語らせているのだと言います。主から出た霊の業なのだと。つまり神は、偽預言者たちを導く悪しき霊をも支配し、アハブはその預言によって導かれ、ラモト・ギレアドに攻め上るが、それは主の目的が達せられるためなのだ、と。400人の言葉に気を良くしたアハブはその通り進軍して、その通り戦死します。神はそこまでを含めて悪しき霊に導かれる偽預言者たちに、そのまま勝利を確信させる言葉を語ることを許し、その通り歴史が進んで行くのだとミカヤは見ているのです。
これは昔々のお話ではありません。21世紀を生きるわたしたちも「大きいことはいいことだ、強いことはいいことだ」と信じて疑っていません。ロシアがウクライナに侵攻した時、「使えない軍事力では他国の侵攻を免れない。日本がウクライナのようになっても良いのか」と盛んに言われ、「だから防衛費はGDP2%という国際水準を少なくともクリアすべきだ」という論調が一気に盛り上がりました。もっと大きな力をもっと強い力を手に入れれば、あらゆる恐れが消え去るのだ、と。小泉純一郎は「備えあれば憂いなし」と言いましたよね。2001年9月27日、第153回国会での総理大臣所信表明演説です。「いったん国家、国民に危機が迫った場合に、適切な対応を取り得る体制を平時から備えておくことは、政治の責任です。「備えあれば憂いなし」、この考え方に立って、有事法制について検討を進めてまいります。」。そして2015年、安倍晋三総理の時に安保法制が「集団的自衛権の行使容認」となり、「検討」が「制定」にかわってしまいました。今の岸田政権も今年から先5年間で防衛費を43兆円にすることを既に決めています。「有事」とは「戦時」のことですから一端戦争に備え始めたら、どこまでも大きくなるしかないのであって、出口もゴールも消えてしまいます。わたしたちの「大きいことはいいことだ、強いことはいいことだ」という願望も際限がないのです。それを絶ち切り、そうではない未来へ向かって道を選び直す以外に、わたしたちはこの道を転がり落ち続けなければならない。そういう宿命を帯びてしまったのです。
わたしたちの救い主が、他者の助けがなければ自分のいのちさえ生きながらえさせることが出来ない赤ん坊としておいでになる時、強さに固執する人間が常に問われることになります。それこそ神の審判です。わたしたちは毎週ろうそくにひとつづつ火を灯し、その審判を待ち望んでいる。であるならば当然、わたしたちは別の道を見つけ出しその道を通る以外にないのです。強いこと、大きいことへの憧れを絶ち切る道。見出すことができるでしょうか。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがこの地上にあなたの御子を送ってくださったその意味を知る者とならせてください。わたしたちは強さに憧れ、そのためにますます大きくなることを必死で目指し、多くの人々を蹴落としながら自分のいのちを縮めることに躍起になっています。その愚かしさをあなたの光で照らしだしてください。違う道、別の道を探し出し、その道を選び、歩み出すことが出来るように、一人ひとりを支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。