アモス8:4−7/Ⅰテモテ6:1−12/ルカ16:1−13/詩編49:1−21
「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」(ルカ16:8)
わたしの父は大工でした。母はわたしが小さい頃はいわゆる専業主婦、それが当たり前だった時代ですので極々一般的な主婦でした。二人は秋田県にある秋南教会の信徒で、とは言え住んでいる地域が遠いところだったので、牧師の仲介で結婚して、当時できたばかりの町営住宅に居を構えます。母は長女でしたし父は8人兄弟の4番目あたりでしたので、どちらにも引き継ぐべき家督はなかったわけです。そして結婚3年目にわたしが生まれます。
その後わたしは好き放題に育って、一人っ子でありながら中学を卒業して家を出て高校から寮生活を始め、その後一時社会人を経験して神学校に進み、以後5つの教会で牧師として仕事をしてきたわけです。
つまりわたしは子どものときから今に至るまで、不動産というものに無縁だったのですね。尤も生家はやがて払い下げを受けて両親の所有になっていますが、それはわたしが関わったことではありません。そういう事情ですので随分小さい頃から「自分の土地」という考え方が良くわからないのです。一体いつ頃から「土地」が個人所有できるようになったのか。この土地が自分のものであるという根拠は何なのだろう。そんなことをずっと考えてきたのです。
イスラエルは律法の中で「嗣業の地」という思想をかたちにしようとしたことに、ものすごい共感をおぼえました。土地は神から与えられたものだから、それを勝手に売り買いしてはならないし、仮に売り払うなら氏族の誰かが責任を負うというルールを定めたのですよね。もちろんそのルールは十分には機能しなかった様子も見て取れますが、土地に対する所有権の根拠を少なくとも「神が下さった」という点に置いているのがわたしには良くわかる、受け入れやすい気がするのです。
今日お読みいただいたルカ福音書は「難解だ」とか「嫌いだ」とかと評される代表的な箇所です。何度もここで言っていますが、だいたいクリスチャンと呼ばれる人たちは少なくとも建前上は「正義」を愛し「不正」を許さないわけです。だからかも知れませんが今日の箇所のようにわざわざ「不正な管理人」という小見出しを見て、イエスがその「不正」さをむしろ歓迎しているのは受け入れ難いのでしょう。「嫌いだ」というのはそういう感覚だと思いますし、「聖書」に好き嫌いを感じることも建前上受け入れ難いクリスチャンは、イエスが「不正」を歓迎していることに、何か自分の気づかない真理があるのではないかと深読みして「難解だ」と思う。そんなところではないでしょうか。
この管理人は何故「不正な」(16:8)と呼ばれるのでしょう。8節に「抜け目のない」という言葉が使われています。これは日本語のニュアンスからすれば「注意深く、やることに抜けたところがない。また、自分の利益になりそうだと見れば、その機会を逃さない。」というような、ちょっとずる賢い意味が含まれます。ところが「抜け目のない」と訳されている言葉は「フロニモース」で、その意味するところは「理解力の鋭い、物わかりの良い、分別のある、賢い」というもので、さらにその先に「光の子らよりも賢く」と書かれている「賢く」は「フロニモテロス」で「より思慮深い」という意味なのですね。となれば、この管理人のやったことは確かに不正なのだけど、その行為自体は賢い振る舞いの一つなのだとイエスが認めているということではないでしょうか。
この言葉を最初に受け取ったのは弟子たちだったとルカは書きます。弟子たちはイエスの教えの真新しさに惹かれて、彼に従っているわけですが、しかし時折自分の育ってきた価値観が優る場面に遭遇するわけです。彼らが育ってきた価値観はユダヤ教の律法とその解釈に示されたとおりでしょう。例えば「正しい人は神から好かれているゆえに義人は繁栄し邪な者は苦難に遭う」というような考え方です。ひょっとしたら真面目なクリスチャンが少なくとも建前上身に付けているものと似ているかも知れません。その価値観からしてこの管理人の行為を「賢い」とは見難いわけです。
ところでもし、すべての土地は神がわたしたちに与えてくださったものだとしたら、そこから出るみのりも、元々は神にだけ所有権があることになります。だから律法には初物を神に捧げることが求められるわけです。それは農作物だけではなく家畜であれ人間であれ、最初に生まれたものは神のものだという思想があるのでしょう。つまりあらゆるものの存在の根拠は「神が与えてくださった」ということに依拠している。
とすれば、この管理人の「不正」とされる行為、つまり主人の貸している油や小麦の量を少なく書き換えることによって、主人の財産をクビになったあとの自分の身の処し方のために「貸し」をつくることによって蓄えるという行為が、そもそもわたしたちのいのちの現実に立脚していると見ることが出来るのではないでしょうか。言い方を変えれば、わたしたちは日々、神の財産を自分の身の処し方のために勝手に使っている「不正な管理人」なのだ、ということです。先週「わたしたちはこの世で生きているかぎりまるでイエスの語られた「放蕩息子」のようなものかも知れません。」と語りましたが、その繋がりで言えば「わたしたちはこの世で生きているかぎりまるでイエスの語られた「不正な管理人」のようなものかも知れません。」ということです。
しかも驚くべきことにイエスは、神の財産を不正に使ってでも「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(同9)と言う。まるで神さまがそれを喜んでくださるとでも言うようにです。そしてわたしは、ひょっとしたらその通りかもしれないと思うのです。わたしたちは神の財産の「不正な管理人」にしか過ぎないのだけれども、だからこそそれを許す神さまの御心を、赦された者としての真実をもって生きるようにと示されているかもしれないのです。自分が不正であるということを認めるのは厄介です。しかし、現実はイエスの言うその通りなのかもしれない。それでもそんなわたしを救うと既に決めて下さった。わたしには救われるに足る一欠片の根拠もないけれども、神さまの決意こそが私たちを生かす根拠なのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしはあなたの財産を放蕩しつくし、あるいは不正に歪めてしまう不届き者です。なのに神さま、あなたはご自身の財産をそのように浪費され不正に歪められることを苦になさいません。それどころか、そのようなわたしをさえ救おうとなさいます。そのことに気づいた今、自分の生き様を省み、あなたに従う覚悟を新たにさせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。