箴言25:2-7a/Ⅱコリント11:7-15/ルカ14:7-14/詩編31:15-25
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:11)
日曜日礼拝に来ると、座る場所がだいたい人によって決まっていたりします。先日亡くなられた鎌倉さんはベンチ向かって右の一番後ろで内側でした。誰が決めたわけでもなくなんとなくその人の定位置みたいなことが、どこの教会でもあるものです。ところが例えば牧師就任式などでよその教会に出かけると、正面前の方がガラ空きだったりしますよね。コンサートだったらS席一番良い場所がガラガラ。後ろの方の安い席が満杯になったりします。クリスチャンってよほどケチなんでしょうか。でもひょっとしたら今日お読みいただいたルカ福音書のイエスの言葉が、そういう態度をススメているように見えるのです。
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。」(ルカ14:8-10a)。イエスはどうしてこんなことを語ったのでしょう。ずっと不思議だったのです。イエスに従う人たちに謙遜ノススメをしているのだろうか。謙遜が美徳だからだろうか。なんだかイエスともあろう人が随分陳腐なことを言うものだと、ずっと感じていたのです。
この箇所はルカにしかない特殊な記事です。他の福音書には取り入れられていないわけです。ということはルカにとってこの話を取り入れる重要な理由があると見ることが出来るかと思います。しかも、ルカだけが取り入れている話は14章1節からの「安息日に水腫の人をいやす」の部分と7節から14節の「客と招待する者への教訓」までなのです。そう考えればこの話を取り入れる重要性は1節から14節までに通して含まれていると見るべきです。
物語はどういう状況だったのでしょう。1節に「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」とあります。それが安息日だった、と。そしてイエスはその食事に招かれていた人たちからじろじろ見られていたというのです。そのイエスの前に「水腫を患っている人がいた」(2)のです。そこでイエスは周りの人たち、自分をじろじろ見ている人たちに対して「自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(5)と問う。誰も答えられません。そこで招かれた人たちに対して「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」という話を始められます。さらにイエスを食事に招いてくれた人に対して「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」(13-14)と言いました。ルカに特殊なこの箇所はそういうひとまとまりの話です。
これは9章51節から始まるイエスのエルサレムへの最期の旅の途中で起こったことです。だから幕の内の軽い気分転換用の挿話ではないのです。この箇所もまた神の国を指し示すイエスの行動と教えの一端です。しかもそれが食事の席で起こっている。食事の席というのが極めて重要です。それは友愛の場であり、叡智を広める機会であり、なによりも神の国の先取りの場所です。
すると最初の疑問には自ずと違う答えが見出されます。人間とはどこまでもわがままつまり自分第一でしかいられません。イエスが「招かれたものは末席に着いた方が良いよ」と仰ったことを盾にとって、「末席に座ることが上席へのキップを手にすること」と思い込み、謙遜ノススメを自分の地位を高めるための手段にすり替えることなんて簡単でしょう。そんな風だから一番安い席が先に満杯になるのです。謙遜で末席に着くことと、さらに上席に着くために末席に座るというのでは自ずから別のことです。
友愛の場である食事の席に、イエスを招待したファリサイ派のこの人は、少なくともその場に水腫を患っている人を同席させるだけの宗教的寛容を持っている人だったと思います。病気とは神に嫌われているしるしであると単純に考えられていた時代に、さらに上席に座ることを目指して敢えて病気の人を招くという事態がそこにあからさまになっていたのかも知れません。そして、本当に「神の前」に謙遜であるならば、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」(13)こそ神の選ばれた神の国の住人に相応しいと心から認めることが出来るだろうとイエスは問うているのです。
教会は神に選ばれた人が招かれている場所です。そしてそれはひょっとしてわたしではないかも知れないのです。だから教会は貧しい人や障害を持つ人の世話をすることを神さまから委ねられています。当然なすべき行為の一つとして。
でもイエスはここで「彼らの必要に応えよ」ではなく「彼らを招け」と言うのです。お返しにわたしを招待することなど出来ない人を歓迎する。先ずそのことをやりなさい、と。どうしてでしょう。
他者を受け入れて彼らを自分と同等のものとして認め、共に食卓を囲み、割かれたパンに与る。その時わたしはホストでありゲストであるということを実感させられます。貧しい人や障害を持つ人、借りを返せないであろう人たちを教会が招くつまりホストになるときに、わたしもまた神さまに借りを返すことなどまったくもってできないひとりのゲストにすぎないことを心から知らされる。だからイエスの謙遜ノススメはダブルスタンダードであることを許しません。建て前であれホンネであれ、ゲストであれホストであれ、わたしたちはわたしたちの生きているあらゆる場面で、同じルールが適用される下で過ごすことを求められているのです。信じているから例外、洗礼を受けているから神の国行きの指定席キップを持っていることにはならないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの前に誰もが自分の罪を認めないわけにはいきません。あなたによって、返すことなど到底出来ない負債を抱え、それをを免れているに過ぎないのだということを思い知らされます。だから謙遜であるということは自分の罪の事実の上に謙虚に座ることなのだと、ようやく知りました。大きな負債を抱えたまま、しかしあなたによって許されているからこそ今生きていられるのだという事実をしっかりと心に刻むことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。