出エジプト22:20−26/ローマ12:9−21/ルカ10:25−42/詩編122:1−9
「もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。」
(出エジプト22: 22−23a)
先日北支区社会部の学習会が開かれて、今度9月にお招きする琉球大学の阿部小涼先生の二つの論文の読み合わせをしました。
その論文の中で「琉球共和社会憲法C試案」というのが紹介されていたのです。1981年6月に「C」という仮名で公表され、後に川満信一さんという元沖縄タイムスの記者だったかたが書かれたものだと明らかにされました。
この憲法試案の前文にこういう言葉があります。
「九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く、淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた。好戦国日本よ、好戦的日本国民者と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。」
わたしは時々、「わたしたちの国は第2次大戦後78年に亘って戦争をしてこなかった。1945年の敗戦は以後戦争をしない文字通り終戦となった。」と語ってきました。それはだいたいはアメリカやヨーロッパ諸国、アフリカや南米などを想定した際に、日本という国のあり方を定めた憲法第9条が絶え間ない破壊工作にまみえながらも保たれ続けてきた成果として語る必要があるときに使ってきた言葉でした。事実、78年間戦争をしてこなかったのだ、と。しかし、阿部小涼さんの論文を読み、そして紹介された「琉球共和社会憲法C試案」を読んだとき、そういう自分の発言は間違いであったことに気づきました。
1945年以後、日本は一度も戦争をしてこなかった。しかし、それが可能だったのは、全てを沖縄に背負わせてきたからであって、「わたしたちの国は第2次大戦後78年に亘って戦争をしてこなかった」と言う時、わたしもまた沖縄を切り捨て差別し続けてきていたのだ、と知らされたのです。「オキナワと聞くと、爆撃機が飛び立つ怖い場所だ」と言われて傷ついた、沖縄ということが加害者なのだと知らされたと語る沖縄にルーツを持つ友人がいました。その言葉が分かったような気になっていた自分が恥かしいです。何もわかっていなかった。沖縄は好戦国日本の好戦的日本国民によって1945年以降もずっと戦争の片棒を担わせられ続けてきていた。「わたしたちは平和です」とかなり胸を張って78年過ごしてきたのだけれど、そのわたしの皮を剥いだら、ツケを沖縄にすべて押しつけ続けてきただけのことだった。それを体裁良くするために「地政学的に沖縄に軍事基地を置くことは正しい」とか、「辺野古が唯一の選択肢」とか嘯いてきたわけです。
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。」(出エジプト22:20−23)。
神はわたしたちに問うているのです。神と契約を結ぶのか、と。契約ですからそれは履行されなければなりません。履行しなければ契約違反です。神は容赦なく契約違反に対して「怒り」を燃え上がらせると言うのです。
今日の礼拝主題は「隣人」です。神は寄留者、寡婦、孤児、貧しい者を「隣人」として、「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」(同26)と言うのです。神は私の隣人ではなく、彼らの隣人です。神はそれを選ばれたのです。
今日子どもたちに読んだ絵本は「へいわってどんなこと?」でした。平和とはどういう状態のことかをわかりやすく書いています。それは例えばこんなことです。「お腹がすいたら誰でもご飯が食べられる。友達と一緒に勉強だってできる。思いっきり遊べる。朝までぐっすり眠れる。」。そんな一つひとつが出来ないところに置かれているいのちが、今もたくさんあるのです。その叫びを神は必ず聞くのだ、と。そしてそういう状態に置いたままにしている者たちを、神は裁くと仰る。
この絵本はこういう言葉で締めくくられています。「平和って僕が生まれてよかったっていうこと。君が生まれてよかったっていうこと。そしてね、君と僕は友達になれるっていうこと。」。一緒に生きることが出来る、その可能性が残されている、それもまた神が認めてくださる「平和な状態」なのでしょう。
だからわたしたちは、神の問いの前に、ちゃんと立つ者でありたい。契約をたとえ堂々と果たせない時でも、少なくとも神の前にちゃんと立つ者でありたい。そしてできるかぎりすべての人と一緒に生きる道を選ぶ。誰かを、どこかを犠牲にすることで守られる見せかけの平和ではなく、神が認める平和をつくる。それが問いの前に立つということなのだ、と、そう思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。平和聖日に、誰かを犠牲にしたままで見せかけの平和を享受していることに気づかせてくださり感謝いたします。神さまは弱くされた者、小さくされた者の嘆きの声を必ず聞きあげてくださり、その嘆きに応えてあなたの力を振るわれることを、真剣に受け止めることが出来ますように。そして本当の平和をつくり出す者として、あなたの問いの前に立ち続けることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。