先日食事に出かけたファミリーレストランは、夕方の恐らく最も忙しい時間帯だったのに、フロアはしばらくの間ワンオペだった。席はいくつか空いているのになかなか通されずに暫く待たされ、店内の様子を観察してわかった。
同じく先日、昔なじみの居酒屋からLINEの通知が入った。「突然のお知らせ、スタッフ不足のため今後日曜定休、土曜祝日15時開店」というものだった。
テレビのニュースを見ていたら、お寺などで見る「木魚」の作り手の後継者不足が報じられた。知らなかったのだが、一つの木魚をつくるために最低でも7年から10年かかるのだという。お寺に納める大きなものだと一つで数千万円に及ぶともいうが、特種な鑿で一つひとつ手彫りするその工程は恐ろしく手間がかかる。50代の当主が「後継者はいないが、楽器などに転用することで素晴らしさを知ってほしい」と希望を語っていた。木魚はいわゆる「伝統的工芸品」のカテゴリーに入るのだろうか、などと思いながらその報道を見ていた。日用品である伝統的工芸品の中には人知れず作られているものも多いに違いない。そしてご多分に漏れずその多くが後継者不足なのだろう。
で、話はここから。キリスト教界でも事態は同じ。いやもはや立ち枯れか。日本の名門(!)神学校からはその嘆き節が何度となく発せられている。言ってみれば後継者不足か。そもそも信徒数が激変する中で牧師(だけ)が増えることなんてあり得ないし、むしろあってはならないことではないかとさえ思う。そうではなく、これまでの「普通の教会」像みたいなものを問い直す、今がその時として与えられているのではないのかな。
先週の教団新生会大会で、連盟と同盟の牧師を交えて話し合った「牧師分団」では、バプテストの「全信徒祭司主義」を実現するために牧師が明け渡すべき数々のことが話題になった。その殆どが実は権威主義と結びついているのではないか、との自省だ。