ルツ1:1−18/使徒11:4−18/ルカ17:11−19/詩編22:25−32
「すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。」(使徒11:9)
山口県・防府教会にいた頃に、日本基督教団の社会委員会委員を務めていたことがありました。この社会委員会で先日亡くなられた下石神井教会の小出望牧師と一時期一緒に働いたことがあったと週報に記しました。また教団社会委員会からは日本キリスト教社会事業同盟に理事をひとり派遣することになっており、2年間の任期でその働きも務めました。日本キリスト教社会事業同盟は、日本基督教団の関係団体である社会事業所が加盟している大きな同盟団体でした。毎年6月頃に総会と研修会があり、それに加えて新人職員研修だとか中間職員研修だとか、施設の種類ごとの研修会なども毎年行われていました。中間職員研修会には2年、チャプレンとして参加しました。教団の社会委員の任期が終わって、派遣理事としての働きも終わったのですが、その後しばらくの間は個人会員として登録され、川崎教会に移ってきてからも、例えば横須賀や御殿場で総会研修会があるときは、開会礼拝の説教者として招かれたりもしました。
その総会で顔を合わせる人たちとは、会う回を重ねるごとにだんだん知り合いになります。ちょっとした空き時間に雑談なども交わすわけですが、その雑談の中でこんな話をしました。キリスト教主義の社会福祉施設でそれなりに重責を担うような人であれば、それぞれの教会でも役員とか教会学校担当とか、お役がたくさんついているのではありませんか、と。皆さん職場でも教会でも、本当にたくさん役職を抱えておられました。せっかくの日曜日、少しゆっくり過ごしたいけれど、ひょっとして遅い時間まで役員会なんかで拘束されていませんか、とも話を振りましたが、苦笑しながら皆さん頷いておられました。
そして抱えている悩みと言えばやはり、キリスト教主義の福祉施設で働く人の中にキリスト者は本当に少ないという現実的な問題でした。それは例えば教会幼稚園などでも同じことでしょう。ところが、気心が知れるようになったからか、彼らの中にこういう話をしてくれる人もいました。「キリスト者だからといってそれだけで信頼が置けるというわけでもない。キリスト者だからという理由だけで何か役職をお任せするのも難しい」と。
本当にそうなのです。キリスト教主義の事業所にクリスチャンが少ないのはもはや当然で、それは問題というレベルどころではないのですが、逆にではクリスチャンの職員だからというだけで安心や信頼が出来るかといえばそうでもないのももう一つの事実です。でもこれだっていってみれば当たり前このことです。クリスチャンがクリスチャンに対して一番幻想を抱き、そしてその幻想に自ら縛られ、挙げ句に裏切られ続けているという、なんだか笑い話のようなことなのかも知れません。
「大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。」(使徒11:5−9)。ペトロはとても不思議な体験をします。ユダヤ教の厳格な食物規定に従って生きてきたペトロを神は試す。同じことがしかも三度も起こったと書いています。
三度という表現は聖書の到る所に出てきます。だから文字通り1回2回3回という意味であるより、「度々」とか「何度も」とか「重要なこと」という意味合いなのだと思います。そして「三度」と書かれているここからカイサリアでイタリア隊百人隊長のコルネリウスが洗礼を受け、彼を起点に大勢の異邦人の上に聖霊が降る出来事をペトロは見るに至ったのでした。全く同じ話が使徒言行録の10章と11章に書かれているのですが、それはそのまま出来事が与えた驚きと感動と衝撃を物語っているのかも知れません。しかし11章の初めの部分を読んでみると、やはり異邦人が救いを受け入れたということをユダヤ人は信じられないし、それは「割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(11:3)という規則違反を厳しく詰ることであったのがわかります。そういうユダヤ人同胞の視線に対してペトロは10章の話を全く同じ熱意で再び彼らに語った。それで漸くユダヤ人は「静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した」(同18)のでした。
これらの物語を受け止めるとき、神は、神こそは、法も掟も軽々と破る方であることを思うのです。旧約聖書は律法が神からくだされたものだと全体のトーンとしては書きますが、その実、神がその指で書きしたためた掟は10条しかありません。十戒です。それ以外に掟を膨らませ、人々の生活を厳しく規定したのは神ではなく人間でしょう。それらの中には例えば環境衛生上必要に迫られたものもあったでしょうが、無用の長物もおそらくたくさんあったのです。そう考えれば、世界とそこに満ちるあらゆるものをおつくりになった神が、異邦人を異邦人という理由だけで差別し、彼らだけは救わない、などと決めるわけがないのです。であれば「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(9)とは、わたしたちすべての人間に、この世界を導く者はいったい誰かを真剣に問いかけることばなのかも知れません。わたしたちは案外気楽に人と人を分け隔てる。簡単に線引きする。根拠など考えもせずに簡単に差別する。そうやって歴史を作ってきてしまったのですから。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが赦してくださったからこそ、わたしは自分のいのちを今朝も新しくしていただきました。にもかかわらず、神さまの力もその救いのご計画も侮り、自分に都合よく人を分け隔て、線引きし、差別し続けています。あなたが赦してくださったにもかかわらず、本当はそんなことを信じてもいないのかも知れません。その罪を懺悔します。あなたが世界をおつくりになって、それははなはだ良かったのだというスタートを思い起こし、それをここまで汚し壊してしまったことを胸に刻み、本当に心からあなたを見あげて歩んで行くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。