イザヤ51:1−6/Ⅰコリント15:50−58/ルカ24:36−43/詩編4:1−9
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカ24:38−39)
昨年暮れ、12月14日に94歳で関田寛雄先生が天に召されました。先生は青山学院大学で長い間助教授を務められ、いろいろな神学校で教派を問わず教えておられましたので、全国にいる現任の牧師や神父・司祭の大半、いやひょっとしたらほとんどの牧師は先生の授業をどこかで受けた人かもしれません。
この関田先生が2021年7月31日付で新教出版社から出した本、おそらく先生最後の著作になるかと思いますが、それが「目はかすまず気力は失せず」という本です。1977年のヨハネ福音書第1章に関する講解説教から2019年のキリスト教学校人権教育セミナーでの主題講演まで、40年以上の間に語られた47編の講演や論考、説教が収録された本です。
この本の「序」として、「福音と世界」という雑誌の2019年5月号に掲載された文章が再録されているのです。そのタイトルは「「老い」を生きるための黙想」です。その文章の中に今日読まれたコリントの信徒への手紙Ⅰの15章55節の言葉が出て来ます。それは、先生ご自身が自分の起点(起きる始まりの点)であり帰点(帰る終わりの点)でもあると語られた、フィリピの信徒への手紙1章20節にある「わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」(口語訳)という言葉の解説として次のように書かれています。「「生きるにしても死ぬにしても」という状況は既に復活の命に与っているということではなかろうか。パウロにしても松本卓夫(註:青山学院大学文学部神学科教授・関田牧師の恩師)にしても使命に生きることの中で死が相対化されているのである。「死は勝利に飲み込まれた」とはそのような事態を示しているのではなかろうか。「最後の敵」であるとまで言われた死が、ここでは相対化されるのみならず、「わたしの身によってキリストがあがめられる」最後のチャンスでさえあるものとされている。」
さらに、終わりを生きるということは死後の世界の論議ではなくキリストの復活の命に与ることだと先生は書きます。「復活の命と言い、永遠の命と言い、それは死後の世界に関わるものではない。復活の命とはこの世における究極的な否定としての死をさらに否定し、絶対的肯定の命を生きることであり、この世界における神の恵みの勝利の信仰に生き切ることである。また永遠の命とは死後なお霊魂的な生が続くというのではなく、時間の中に生じるあらゆる不条理の事態を突き抜けてなお、その人を生かしてやまない恵みの力に生きることである。」本書のあちこちで繰り返し先生は「永遠の命とは使命に生きること、神の召しに命を使うこと。使命とは命を使うと書くのだ」と語られています。
関田先生が亡くなったというニュースを聞いたとき、わたしは思わずエノクを思い起こしていました。エノクは創世記5章に出て来る人です。アダムからノアに至る系図の中で7番目に登場します。そしてこのエノクだけ特別な紹介がされています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)。関田先生は使命に生き続けている、わたしたちの肉眼ではもう見えなくなったのだけれど、それは神が取られたのでいなくなっただけで、今も「あらゆる不条理の事態を突き抜けてなお、その人を生かしてやまない恵みの力に生き」ているのだと、先生の死という悲しい現実を突きつけられたときに、なんだか心の底からそう思えたのです。
今日の福音書にこう書いてありました。「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(ルカ24:36−37)。この言葉はエマオ途上の物語とイエスの昇天との間に置かれた物語の中にあります。復活の主が目の前に現れることは弟子たちにとっては恐れでありおののきであり、うろたえることだったのです。しかしイエスが自分の傷だらけの手や足を見せてくれたから、あの十字架に磔られたイエスご自身がそこにいると知って、漸く喜んだ。そういう情景が描かれています。
死とは何か、復活とは何か。それはわたしにもわからないことです。今ここにいてわたしの目に見える皆さんだって一度も死んだことのない人たちですから──死にそうになった、死線をさまよった人がいることは知っていますが、すんでの所で向こう側に行かなかったからこそ今ここにいるのですよね──、死のことも復活のことも良くわからないのは当然です。わたしも同じです。
でも一方で、確かに神に召されたその命を生涯に亘って使い切ろうとした実にたくさんの人たちをわたしたちは知っているのです。その人たちは命を使い切ったら、まるで電池が切れるようにすべてがストップしてしまうとは思えないのです。この地上に使命があるかぎり、使命のために命を使おうとした人たちがいて、ただひとり彼だけでなく、それに続くかのように自らの命を使おうとする人たちは次々に起こされています。それは驚きであり恐れでありおののきであり狼狽えることでもありますが、しかしまさしくそれこそ文字通り復活の顕現なのではないか。そう思えるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは今もまたたくさんの人にいのちを与え、そのいのちを隣人を愛するために用いるようにと招かれています。その招きに応えて使命に生きる人が起こされ、隣人を愛するゆえに不条理の事態に挑み続けています。わたしたちはその人たちの働きによって自由を得て、愛を知り、信仰を与えられ、わたしにもいのちが与えられていることを知るに至りました。それはまさしくわたしたちの主の復活の出来事そのものでした。わたしたちは主の復活によっていのちの意味を改めて知ったのです。あなたが与えてくださったいのちをそれぞれの務めのために喜んで使う者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。