すれ違ったのはスプリングコートのポケットからスマホを取り出す若い女性。タバコのような箱も一緒に落とした。「落としましたよ」と声をかけたが気づかず行ってしまう。そこで今来た道を引き返し、横断歩道で待つ彼女を追い、袖口にその小箱でトントンしてもう一度「落としましたよ」と声をかけた。振り向いた彼女の顔には明らかな警戒心──不審なスケベおやじかストーカーでも見るがごとき──ありあり。だがここは極めて冷静を装い、もう一度「落としましたよ」と箱を手渡す。ようやく彼女の顔から警戒感が消えた。
一体この新宿通り。ここでは一日に何千人何万人が無機質に行き交っていることだろう。そのうち極々珍しいアクシデント(?)が起きて人と出くわすのだ。どうしたって「人を見たら泥棒(不審なスケベおやじ)と思え」になるだろう。彼女は正しい処世術を身に付けていたわけだ。わたしだって聖人君子ではないのは当然で、一瞬で深層の闇を見透かされたのだ。だからその表情が不快だと思うより先に、こちらが恥ずかしくなってしまった。
だが一方で、ニッポンには「袖すり合うも他生の縁」という言葉もあるぞ(実はこの言葉はおよそ8種類ほどの類似があるのだが、わたしは頑固にこの言い方を推奨)。道行く人と袖がすり合う程度のことでも前世現世来世に関わる縁があるのだという意味(らしい)。今この瞬間にすれ違う数千人の一人ひとりは偶然ではなく深い宿縁があると思えば、少なくとも「人を見たら…」とは全く異なる世界観が生まれるのではなかろうか。
こういうことを言うとすぐに「お花畑の住人」とレッテルを貼られるのだが、そもそも不審なスケベおやじかストーカー、その程度のレッテル恐れようや。曲がりなりに教育なんぞという分野に手を染めているのだ。子どもたちに幸せな未来を手渡せなければ、大げさに言って生きている意味もない。
自分の半径5㍍程度にはね(安全も一応(それなり)考慮)。