エレミヤ31:1−6/Ⅰコリント15:12−20/ヨハネ20:1−18/詩編30:1−6
「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」(ヨハネ20:14)
夜が明けたかどうかわからないような町の中を、女の人が小走りに走って行きます。
目指すのは郊外の墓場です。4世紀頃イエスが納められた墓だとされる場所に「聖墳墓教会」が建てられました。紆余曲折を経て今でも多くの信奉者を集める聖地です。仮にマリアや弟子たちがエルサレム市街に住んでいたとして、その場所を神殿の近くと仮定した場合、そこから聖墳墓教会までは歩いて12〜3分だそうです。その距離を夜が明けたかどうかの時刻に正式な葬りの道具を携えた女性が一人で小走りしている。
ものの10分ほどで墓に着いたら、墓の蓋である石が取りのけられているのを見ます。それだけで彼女は、あるべき遺体がなくなっているとわかったのでしょう。それで大急ぎで今走ってきた道を引き返します。
10分後、マリアの報告を聞いた二人の男が、まるで競争するかのように墓に向かって走ります。足の速さに差があって到着は二人別々でしたが、後に着いたペトロは墓の中に入って遺体がなくなっていること、イエスを包んでいた亜麻布だけがそこにあることを見ます。呼ばれたもう一人も墓に入ってそれを見ました。でもその意味がわからなかった二人は頭を抱えながら今来た道を戻ってゆきます。
マリアは再び墓に戻ってきます。もうこの道を今朝だけで3回も行き来しました。家に戻る二人の男の様子を見て、彼女は「遺体がない」のがもはや決定的であることを知り、墓の前で泣き続けるしかありませんでした。
日本語で「サキ」と「アト」という言葉があります。で今わたしはこの言葉を発音しましたが、その言葉で皆さんはどのようなイメージを抱いたでしょうか。「サキ」を「前のこと」、例えば「最先端」という漢字に使われる「先」、「アト」を「後のこと」という風にイメージなさったでしょうか。時間概念としても例えば「サキ」は未来、「アト」は過去というイメージ。だから今皆さんに「未来の方向を指さしてください」とお願いしたら、全員が「目の前」を「サキ」として自分の前方を指さすのではないかと思います。
ところが日本語では全く逆のイメージを表現する場合があります。「先日」というのは「サキの日」と書くわけですが、これは未来のこと──明日とか明後日とか──ではなく過去のこと──昨日とか一昨日とか──を指します。一方「先々のこと」と言ったら大体「これから起こること」を意味します。つまり「アト」と「サキ」にはそれぞれ過去と未来の両方の意味があるのです。古代や中世の人たちにとって、未来は「アト」のこと、つまり背中の方にあると考えていたようなのです。
日本中世史の学者である勝俣鎮夫さんの論文によると、戦国時代の頃まで日本人にとって「未来」とは漢字の意味通り「今だ来たらず」であって「見えないもの」という意味で使われ、逆に過去は過ぎ去った景色として目の前に見えていると考えていた。だから「未来」は背中の方角、過去は「目の前」の方角だった。
ところが16世紀ぐらいになると「サキ」が未来、「アト」が過去という意味が加えられてゆきます。どうしてそうなのか。それはその時代に、人々にとって未来とは制御可能なものだという自信が芽生えて、「未来は目の前に広がっている」と認識できたのだというのです。「神がすべてを支配していた社会から、人間が経験と技術によって未来を切り開ける社会に移行したことで、自分たちは時間の流れにそって前に進んでいくという認識に変わった」とも言えるのかも知れません。
そして驚いたことに、こういった「アト・サキ」の考え方は世界中にあるらしいのです。
今日の聖書、マリアは泣きながら墓の中を見ています。彼女の目の前には十字架で殺されたイエスの遺体があるはずだった。ところがその遺体があるべきところにない。彼女が泣いているのは「遺体がない」からです。あるべきものがなくなってしまっている墓を目の前にして彼女は泣いている。
ところが彼女の後にイエスは立っている。そして不思議なことに、振り返った彼女にはそれがイエスだとはわからない。どうしてでしょう。聖書には「マリアは、園丁だと思って」(ヨハネ20:15)と書いています。イエスとマリアとの関係性から考えて、彼女が最愛のイエスのことを園丁だと勘違いするなどありえないでしょう。ところが事実それがイエスだとわからない、認識できない。どうして? 答えは二つしかありません。ひとつは事実それがイエスではなかった。二つ目はイエスだとわからないことにこそ意味がある。復活なんてあり得ないのなら答えは①です。しかしもし復活はあり得るのであれば、マリアがイエスを認識でいないその不可解さにこそ意味があるとしか説明のしようがないのです。
「アト」と「サキ」。彼女が目の前にしているのは空の墓。そこにはマリアがイエスと共に過ごしてきた1年なり3年なりの過去があります。その最期は悲しすぎる、恐ろしい、呪いと穢れの象徴たる十字架の死刑でした。目の前に見る「墓」は「過去」が凝縮されてそこにあります。
しかしイエスは思いがけないところから──彼女の後ろ、即ち「未来」から──マリアに呼びかけます。そして、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を」(同20:9)マリアに説くのでした。
イエスの言葉を聞いたマリアは、もはや目の前の「過去」に涙することを止めました。その代わり未来に向き直って声たかく宣言するのです。「わたしは主を見ました」(同18)。バック・トゥ・ザ・フューチャー。彼女は未来に戻っていった。その足を、よみがえった主が支えてくださっています。今、わたしたちも未来へ、不確かだけれども主によって支えられる未来へと、胸を張って戻ってゆきたい。
祈りましょう。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。マリアの後ろから、マリアの未来から、復活の主は声をかけてくださいました。その同じ主は今、わたしたちをも未来から招いてくださいます。主の招きこそは神さま、あなたの招きです。あなたの招きに応えて進んでゆくことが出来ますように。わたしたちの足を支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。