イザヤ41:8−16/使徒28:1−6/ルカ9:10−17/詩編46:1−12
「イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」」(ルカ9:13)
先週、私が洗礼を受けるにあたって「あぁ、これで普通の人ではなくなるんだな」と漠然と頭の中で考えていた、ということをお話ししました。それがとても高慢な思いだったのではないか、と。「普通の人」と「そうでない人=普通ではない人」という線引きをして、自分が属する側を普通ではない一段高いものと見做す、そういう高慢な思いが考え方の根本にあることは間違いないのですが、それに加えて、キリスト教徒になるということが、何か他者に対してやってあげることが出来るという思いがそこにあった。それがメサイアコンプレックスだったのではないかというお話をしました。
で、このメサイアコンプレックス、わざわざ「メサイア」と付けられていることからもわかるとおり、狭い意味で使われるときは宗教と密接に結びついています。個人があたかも「世界を救う救世主である」「人を救うのが使命である」といった誇大妄想を持つ心理を指すのです。カルト教団の創始者でもあるまいに、自分のことを救世主であるなどと私が考えていたわけではありません。そこはキリスト教的なわりとオーソドックスな聖書理解や神理解があったから、カルトの教祖にならずに済んだのだと思います。でも自分が救世主だとは思わないまでも、誰かのために某かの役に立ちたい、聖書にあるようにイエスがたくさんの奇跡を行って困っている人を助けたように、自分にももしかしたらそういうことができるようになるかもしれない、と自分に対してあらぬ期待をかけていたように思うのです。そしてそのことに酔っていた。自分なら出来る、と。
そういう浮ついた思いを持っているわたしに対して、イエスは鋭く迫ります。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(ルカ9:13)。もし誰かを助けることが出来るのではないかと期待しているなら、今こそその時ではないか。「あなたがたが」するのだ、と。でも、夢に酔っている私は現実によって冷めさせられるわけです。「このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(同)それは無理でしょう、と。極めて合理的であり現実的です。洗礼を受ける高揚感によって、もはや何も恐れなどないのだと自分に酔っていたくせに、いざ現実にその時が巡ってきたら合理的現実的判断によって無理と決め、尻込みする。
この5千人に食べ物を与える奇跡の話しは4つの福音書全部に掲載されている珍しい話しです。時代の違いや置かれた場所の違い、更には執筆の目的さえ違っていたであろう福音書4冊にすべて書き込まれているということは、この物語が大きな意味を持っているからだと考えて良いのでしょう。もちろん書かれた目的が違うのだから同じ物語でも強調点は少しずつ違います。それがまたおもしろいですよね。弟子の無理解を批判するマルコ福音書は「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」(6:37)と言わせています。マタイはイエスの言葉に工夫があって「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(14:16)と、めいめいに買いに行かせようと決めた弟子たちに別の提案をするイエスの姿があります。ヨハネ福音書はイエスがわざわざフィリポにどうすれば良いかと尋ね、群衆の中に探し回ったペトロがやっと子どもの弁当を見つけてきたけれども、それについての弟子たちの正直な気持ちがペトロの言葉として書かれています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6:9)。一方お読みいただいたルカ福音書は、弟子たちの心意気と言いましょうか「なんなら買ってきましょうか」と言わんばかりのニュアンスがあります。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」(13)。
ところがおもしろいことに、マルコとルカだけはこの物語の直前に弟子(ルカでは「使徒」)が派遣されてそれぞれ宣教を行って戻ってきたときという枠組みをはめ込んでいるのです。戻ってきてイエスにその結果を報告し、イエスは彼らを労っている。そのいわば休息の場でこの難題が沸き起こった、という設定です。ということは、弟子とか使徒とかに委ねられた宣教の業のど真ん中で今5千人の空腹という問題が起こっている、ということです。
イエスの宣べ伝える神の国、あるいは福音の宣教は、人間の平凡な日常の暮らしと切り離されてはいない、むしろそこと直結し連続しているという示唆なのではないでしょうか。私があの日「これで普通の人ではなくなる」と思ったように、信仰を告白するとか礼拝をするとかというのは、日常とは別の、全く関連のない事柄であって、いわばそういうよそ行きの場面でなら良い行いを喜んで出来るかもしれないけれど──まぁそれでも難しいだろうし、出来ないに違いないことは私のその後の歩みが証明しましたが──、でも多くの人は同じように思うのではないか。ところがイエスにとって福音の宣教と病人の癒やしや空腹への給食は、一線を画した全く別の次元、信仰とか精神性の話ではないのです。生活する場所こそ福音宣教の場であり、日々労苦して生きるその現実こそが宣教の場なのですね。
自分のいのちの場とは、自分の表向きだけがある場所ではなく、裏側もどす黒い内側も丸見えの場所ということです。そしてそういう場所こそ、ひとりひとりに与えられた宣教の現場なのであり、その場所でこそ「あなたがたが彼らに」とイエスによって促されている場所なのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。私のいのちの場においてあなたはわたしを召し出し、わたしに務めを委ねられています。よそ行きの、ハレの場でではなく、わたしの至らないところが露呈される、どす黒さが浮き立つ場所で、しらばっくれることなど出来ない場所で、あなたがわたしを召しています。その言葉に従う勇気を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。