先日教会男子トイレの手洗いの水が出なくなった。蛇口の下に手を伸ばせば、センサーが反応して一定時間一定量の水が流れるのだが、どうもセンサーが反応しないようだ。
経験上どこかに電池が仕込んであるのは見当がつくが、場所がわからない。礼拝堂が改築されて13年で皆初めて遭遇した事態。そこで設備の製造販売元に連絡し、状況を調査してもらい、必要な部品の交換を行った。1月8日の礼拝には間に合わなかったので、その日曜はちょっと不便を味わった。
不思議なものだ。手をかざすと水が流れる生活に、体がすっかり馴染んでいる。状況をいちばん知っているはずの私が、用を済ましついつい蛇口の下に手を伸ばす。トイレもセンサーによってその場を離れると水が流れることに慣れ時々他所で押しボタン式の始末を忘れて慌てることもある。「便利」が「当たり前」になると、どうやら「脳」が「退化」するらしいことをわが身で経験するのだ。
娘が二十歳を超えた頃、何かの拍子に王冠付きのボトルがあって、引き出しから栓抜きを出してテーブルに置いたのだが、一向に栓を抜く気配がない。どうやって使ったら良いのかわからないという。その栓抜きは缶切りもついているが、当然缶詰のフタを切り抜いたこともないという。
まぁ王冠やプルタブなしの缶詰なんてそもそもほとんど見ないから、栓抜きも缶切りも必要ないと言えば必要ない。だがマッチはどうだ。それを使って火を熾す経験もおそらくないだろう。小さな子どもの中には水道の蛇口をひねることが出来ない、ひねったことがない子もいる。タオルを絞れない子もいる。
便利であることは良いこと。でも人間生き延びるに必要なことはたとえ不便であっても経験したいしさせたいもの。
薪だって詰めすぎたら火は着かないよ、空気が通るように隙間を空けなきゃ、と、餅つきお手伝いのお父さんの背中に呟く言葉を飲み込む園長だった。