サムエル上1:20−28/ローマ12:1−8/ルカ2:21−40/詩編72:12−20
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。」(ルカ2:28)
以前5月に週報の「四谷快談」に「0歳児からおそわること」という文章を書きました。新宿区私立幼稚園父母の会連合会の総会にお招きした松井和さんのお話に感銘を受けたからでした。
こういうふうに書きました。「和さんは「大宇宙が0才児をわたしたちに与えてくれるのには意味がある」と仰います。何も出来ない──会話も交わせない、寝ているだけで、人の手を借りなければ命をつなぐことも出来ない──0才児がそこにいるのは、周りの人間が「良い人間」になっていく手助けをすることを天命として持っているからだ、と。」。そしてこの話を聞きながら児童精神科医でもうなくなられた佐々木正美先生の言葉を思い起こして、「そういえば佐々木正美先生が、「生まれて数ヶ月の子どもが何かの拍子に笑う。すると周りのおとなたちが『笑った、笑った』と笑う。やがて周りを笑顔にすることが子ども自身にとっても嬉しいことになってゆく」とお話しになっていたなぁ。」と書いたのでした。
四谷新生幼稚園も今年職員や園児の家庭で何人も赤ちゃんが生まれました。その体験から確実に言えることですが、赤ちゃんの顔を覗き込む人は、みんないつの間にか良い笑顔をしています。不思議ですが、よほどのことがない限り人は赤ちゃんを覗き込むと必ず微笑みます。怖い顔や怒った顔はなかなか見ることができません。多分、赤ちゃんという存在が、人に対して思わずそうさせる力を持っているということなのかもしれませんね。佐々木先生が分析しているとおりだと思います。
最近誰かのSNSでの投稿が波紋を呼んだというニュースを読みました。赤ちゃんを連れているお母さんの書き込みで、見ず知らずの人がいきなり赤ちゃんを触るのはやめてほしい、という書き込みでした。例えば相手が成人だったら見ず知らずの人がいきなりほっぺに触るようなことはしないでしょう。でも相手が赤ちゃんだとそんな場面が起こり得る。見ず知らずの人がいきなり赤ちゃんに触れてきたり話しかけたりする。それはやめてほしい、と。まぁ、コロナ禍にあるということを割り引いたとしても、その書き込みだけで判断したらちょっと残念なことだなぁと思いました。赤ちゃんの本来ある(と思われる、あるいは佐々木先生や松井和さんが実証しておられる)赤ちゃんの力を台無しにしてしまうなぁ、と。もちろん「イヤだ」と思うことも全く理解できないというのではありませんが、やはりなんだか残念に思えました。
ところが今日お読みした聖書には、そんな迷惑どころではないとんでもない老人が登場するのです。
シメオンという老人は、主が遣わすメシヤに会うまで死なないと噂されるほどの人でした。その噂ひとつで、彼が一体どういう生涯を歩んできたのか、少しわかる気がしますね。その彼が今、マリアの胸に抱かれて神殿にやってきたイエスを抱き上げて、神を賛美するのです。「シメオンは、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」」(ルカ2:28−30)。彼はマリアの腕に抱かれているイエスを「見る」だけで良しとはしなかった、ということでしょう。半ば強引だったかもしれないけれど、マリアからイエスを取り上げ、自分の胸に抱いたのでしょうね。マリアは驚いただろうし、一緒にいたヨセフはひょっとしたらマリアとシメオンの間に割って入ったかも知れません。あるいは現代とは違って多くの人が祝福してくれることを心から喜んでいたでしょうか、そうかも知れません。SNSの書き込みとは全く別の世界がそこにあったかも知れません。でもたとえそうであってもやはり戸惑いを引き起こす場面ではあります。
しかし一方シメオンには、そうする必然があったのです。長い間この時を待ち続けてきたのです。それはもちろん、シメオンという特定の一人の人にかかることではありません。そうではなく、本来はすべてのイスラエル、すべての約束を待ち望んできた人たちにかかるのです。待ちわびたその瞬間をついに今迎えたのですから。
クリスマスとは、わたしたちの胸にイエスを抱くことです。赤ん坊を胸に抱くためには、わたしたちが既に持っているもの、抱えているものを手放さなければ出来ません。全てを捨てた時に初めて、幼児イエスを、イエスだけを、この胸に抱くことができるのです。神さまは、精神こそ第一で、肉体なんて低次元だとはなさいませんでした。だから人間を肉体をもつ者としておつくりになったのでしょう。その体を使って赤ん坊を抱くという行為が何を意味するのか、神さまならすべてご存じなのです。そしてわたしたちは神さまが与えてくださったこの体で、まさにすべてを捨てて初めて、イエスをこの胸に、この心にお迎えすることができるのでしょう。それがクリスマスの意味なのですね。
生まれたばかりのイエスを受け止めたのは飼い葉桶だったと言われています。このあと歌う讃美歌21−256番にあるように、産まれたばかりの赤ん坊イエスを受け止めたのは、黄金のゆりかごでも錦の産着でもなく、わびしい干し草だったのです。しかし、そのわびしい干し草は、飼い葉桶の中で、その全てでもって、幼児イエスを受け止めたのでした。この讃美歌は最後に、「この身と心を主のまぶねとなしたまえ」と祈ります。それはそのまま、わたしたちの祈りの言葉でもありましょう。わたしたちも、このわたしたちの体と心の全てでもって、お生まれになった救い主、イエス・キリストを受け止め、抱き、主を賛美しましょう。イエスを文字通り心に宿し、与えられた新たな一年を歩んでまいりたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。私たちの与えられた赤ん坊イエスをこの手に抱くために、わたしが抱え込み手放すことの出来ないあらゆるものを、手放すことが出来ますように。手を開き、伸ばした指で確かに救い主である赤ん坊に触れ、心に宿し、歩みを続けることへと導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。