「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」(ルカ2:18)
アドヴェントの季節になると、どういうわけか説教の準備のために「受難曲」を聴きながら作業することが長くありました。J・Sバッハは「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」という二つの大曲を書きましたが、それを毎回聞いていたのです。受難曲というのはどちらかと言えば、受難週とかレントとかに聞くべき曲なのかもしれません。この季節、デパート等へ出かければ必ずと言っていいほどクリスマスソングが流れています。街の中でもスピーカーから聞こえてきます。でも、いざアドヴェントの説教の準備をしようというときになんだかクリスマスソングでは気分が乗らなかったです。
どうしてなのか考えてみました。それはイエスの誕生を記念するこの時こそ、イエスのいのちの意味、そしてその死の意味を最もよく思い浮かべる時だからだと思い当たったのです。飼い葉桶の中に生まれたばかりの赤ん坊が寝かされている。その赤ん坊は、やがて時の権力者によって十字架につけられてしまう。後の世の人たちは、十字架にかかったあの人こそ私の罪を背負って死なれた救い主なのだと思うに至った。つまりイエスが生まれたのは私たちの罪を背負って死ぬためだったとわかったのです。イエスの誕生を待つこの時に、もちろん幸せな気持ちでクリスマスソングを聴くのもいいけれども、少なくともその意味を考え、説教を準備するには、あまりにも幸せな気分が漂うロマンティックなクリスマスソングはどうも向かなかったということなのです。
ところがです。長いことそういう風に考えてきていたのですが、ではクリスマスそのものの意味は一体なんだろうというところでいつも頭が止まってしまうのです。「クリスマスおめでとう」というのが普通の挨拶ですが、今述べてきたようなことを考えていると、「おめでとう」という言葉は口にのぼらないのです。典礼色そのもの、心が紫色に染まってしまっている。
もちろんそういうクリスマスもあって良いし、数年前に「ブルークリスマス」という言葉にも出会いました。みんながみんなうれしく楽しい気持ちでこの時を過ごすわけではない、悲しい出来事を抱えた人だっているのだ、いっしょに祝ってくれる人を持たない人だっているのだ、と。もちろんそうなのですが、それはしかしクリスマスシーズンに限った話ではないのだから、あのナルドの香油の物語でイエスが弟子たちに向かって「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(マルコ14:7)と語られたように、悲しい出来事を抱えた人、寂しい思いをしている人はいつでもわたしたちの傍らにいるのですから。クリスマスが特別なときだからこそ、いろいろな思いを抱えている人を憶えようという呼びかけには確かに大きな意味があるけれども、むしろそういう状況は年中変わらずあり続ける。
ではクリスマスの意味はなんなのでしょう。それを喜ぶ意味はなんなのでしょう。わたしたちは何故「クリスマスおめでとう」と言えるのでしょう。
ベツレヘムはミカ書の時代には「ユダの氏族の中でいと小さき者」(ミカ5:1)と呼ばれていたようです。ミカは北イスラエルにも南ユダにも神の裁きの預言を語った人です。ミカ自身はエルサレムに近いモレシェトという小さな街の出身ですから、小さいということがどういうことなのか理解している人でしょう。その彼がベツレヘムを、そしてエフラタの地を「小さき者」と呼んでいるということです。けれどもその小さいベツレヘムから「イスラエルを治める者が出る」。しかも「その力が地の果てに及ぶ」(同3)とまで言われるのです。先週読んだイザヤ書にあったように、「小さい子供がそれらを導く」(イザヤ11:6)と言われたとおりです。小さい者が弱い者が、つまり人間の普遍的な価値観からしたら取るに足らないと見做され蔑まれるような存在が、全世界をまことの神のもとに導き連れて行くと歌われているわけです。
クリスマスはだから、「赤ん坊が生まれた」ということが重要だったのです。無力で自分では何ひとつできない赤ん坊がしかし、神の力・神の救いをすべて余すところなく伝えている。その子が特別な存在なのではなく、いと小さき者すべてが等しくそうなのだということが重要なのではないか。「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(ルカ2:16)時に、羊飼いたちはその真実をその目で確かに見たのでしょう。だから「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(同20)のです。ただの赤ん坊であったけれども、天使が伝えてくれたとおりだった。何も出来ずただ寝かされているだけの赤ん坊が、確かに神の力・神の救いのすべてを余すところなく伝えていた。だからそれを見た彼らは喜んだのです。
そして、当然の帰結ながらそれを見ることが出来なかった街の人たちはみな「羊飼いたちの話を不思議に思った」(同18)のでしょう。赤ん坊が救い主だなんて話しを誰が信じられたでしょう。赤ん坊が神のすべてを余すところなくわたしたちに伝えているなんて、誰が想像したでしょう。
救い主がわたしのためにそのいのちを捨てた、その確かな事実をしっかりと見つめながら、その救い主がわたしたちのただ中に、最も無力な姿でおいでになったことを、だからわたしたちはやはりありがたいことだと感じて良いのです。神さまは偉大な王によって偉大なことを成し遂げさせるのではなく、なんでもない普通の赤ん坊の姿を通して神の御心をわたしたちに伝えてくれているからです。
そして驚いたことに、わたしもまたひとりの赤ん坊だったのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたのすべては最も小さな者の中にあります。わたしたちは今その事実をこの目で見て、驚きつつ大きな喜びに包まれています。あなたはこのわたしも赤ん坊であったことに気づかせてくださいました。あなたがこのわたしの存在を使ってあなた自身を証ししてくださったことが確かにあったのです。そのことに気づかせてくださいました。今もまだただの小さな存在に過ぎないわたしを、だからあなたは用いてくださるのです。ここに集うすべての者が今その事実を自分の目で見て、あなたをあがめます。どうぞわたしたちに希望を満たしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。